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釈迦の悟りー入滅編(『太陽の法』ポイント解説㉘)

この記事に目を通して下さり、本当にありがとうございます!

私の記事では、大川隆法先生累計3500回の法話3100冊以上の著書から、おすすめポイントを紹介しています。

現在、大川隆法著「太陽の法」のポイント解説に挑戦しています。

2024年、「何か一冊オススメ書籍は?」と訊かれたら、間違いなく『太陽の法』をおすすめさせていただきたいです。


「太陽の法」


『太陽の法』は幸福の科学の基本書かつ最重要経典です。

大川隆法先生は、1986年7月に大手総合商社を退社・独立後、わずか19日間で、自動書記にて、この『太陽の法』を書き上げたと言われています。

(自動書記とは、天上界の啓示を受けて、ひとりでに文章を綴っていくような状態です。)

つまり、この『太陽の法』こそが、華々しい経歴を誇ってきた大川隆法先生が、学歴や出世街道など、約束されたエリートとしての未来全てを投げ捨ててでも書きたかった、真理の一書、ということになります。

以後、『太陽の法』は当会の根本経典として、30年以上もの間、人々の心を潤し続け、世界23言語で発刊の大ベストセラーとなっています!

人類の永遠の疑問への答えを明確に説き明かした「太陽の法」。
その魅力の一端なりとも、このnoteにてご紹介できれば、この上なく光栄です。

この一冊と出逢うために、あなたは生まれてきた―。

その言葉の意味を噛みしめながら、このnoteで出会ったすべての皆さまに、愛をこめて、『太陽の法』との出会いを贈ります。


第28回目となる今回は、『太陽の法』4章第8節「釈迦の悟り(2)―入寂」をご紹介します。

35歳で大悟して大悟より後、80歳まで法を説き続けられた釈尊。

その悟りは、日々進化し続けていったと言われています。

前回の太陽の法解説では、釈尊が大悟した際の悟りを、ご紹介しています。

詳しくは前回記事をご参照ください🌟↓↓

今回ご紹介するのは、大悟から約45年後、釈尊がこの世を去られる時(入寂・入滅)の悟り。

なお、文章の高潔さを味わっていただきたいため、前回に引き続き、『太陽の法』を一部抜粋しつつ、そのままの文章でお届けししていきたいと思います🌷


釈迦の悟り(2)―入寂(にゅうじゃく)

クシナガラの沙羅双樹の木の下で、右腹を下にして、右腕を頭の下に折りしいて、左手を病んでいた腹部にあてながら、涅槃に入りつつあったとき、つぎのように考えていたのです。

「私は三十五歳で悟りをひらいて以来、四十五年間、善を探求し、正理(しょうり)とは何かを説いてきた。
しかし、その私にも、ついに、肉体を去るべきときが来たようだ。
私の老いさらばえた肉体よ、すべては無常であるのだ。
私にはもはや、なんらお前への執着は残っていない。
実に四十数年ものあいだ、人々に仏の道を説き、人間として生きるべき道を示すことができた、その法こそが私自身の本当の身体なのだ。

釈尊の「諸行無常」の教えが、よく表れています。

すべてのものは移ろいゆくもの。

肉体が老い、この世を去っていくのもこの世の常である。

すべては無常、なんの執着も残っていない。

……こう言い切れるところに、釈尊の強さを感じます。

釈尊は自分の肉体ではなく、説かれた「教え」「法」こそが、本当の自分なのである、と説かれています。

つまり、釈尊の肉体がこの世から去ることをいたずらに恐れるのではなく、この世に説いた「法」、その中身こそが釈尊自身である、と信じなさい、ということです。

これは、宗教的な意味合いでなくても、知的生産物を創作したことのある方には分かる考え方ではないでしょうか。

作家であれば、自分の持てる全てのエネルギーをかけて完成させた作品自体が、自分の思想そのものであり、自分自身である。

画家であれば、人生の全てを絵画の技術・表現力の向上に捧げ、そこに自らの精神を残していく方も多いと思います。

そうした方々にとっては、その生産物自体が自分の生きた証であり、たとえ命がなくなったとしても、そこに自分の精神が残っている。

だからこそ、人々に何かをつたえたくて、作品を残すのだと思います。

このような例と釈尊の「法」を並べるのは失礼にあたるかもしれません。

ただ、「私の説いた「法」自体が私自身である。ゆえに、いたずらに肉体の死を恐れる必要はない」と仰ることの意味は、なんとなく想像がつくのではないかと思います。


また、私の弟子たちよ、長年、ほんとうによくやってくれた。
私の身のまわりの世話から、法の伝道まで、実によくやってくれた。
あなたがたのおかげで、釈迦教団は、五千人を超える出家弟子をもつ大教団となった。
また、私の教えを信奉する者は、全インドに、一体何十万人いるか数知れない。
それもこれも、みな、あなたがたが、法難と戦い、法敵の目をかいくぐって、仏法の伝道をつづけてくれたからだ。
あなたがたなくして、この法が弘がることはなかっただろう。
今後も怠ることなくつとめ励むがよい。
(中略)

『太陽の法』では、上記のような弟子たちへの感謝の言葉に続き、十大弟子と言われる弟子たちへの別れの言葉が続きます。

舎利弗、大目連、摩訶迦旃延、須菩提、阿那律、富楼那、摩訶迦葉、阿難、優波離、羅睺羅……

一人ひとりにメッセージを残していくあたりが、愛情深く面倒見のよい釈尊のご性格を表しているのではないかとも思います。

そして、決して自らが偉ぶるのではなく、法を広める手伝いをしてくれた弟子たちへの「感謝」の気持ちを述べられていることからも、釈尊の高潔な精神を学ぶことができます。


ああ、かわいがった弟子たちのことを思うと、私がこの世を去ったあとのことが、ほんとうに気にかかる。
弟子たちよ、よくおぼえておくがよい。
私の生命は、まもなく地上を去るが、私の遺した教えは、何千年もののちに伝えられて、世の人々の心の糧となってゆくであろう。

最も大切なことは、釈尊の遺した教えが何千年ののちにまで伝えられ、世の人々の心の糧となっていくこと。


縁生の弟子たちよ、私の最後の言葉をおぼえておくがよい。
私の生命は、あの満月のようなものだ。
月に雲がかかって見えなくなったように思えても、その実、月はやはり、雲のむこうで煌々と輝いているのだ。
そのように、生命というものは、永遠に輝いているのだ。
永遠におわるときがないのだ。

月に雲がかかると、一時的に見えなくなるけれど、だからといって、月の光がなくなるわけではない。

釈尊がこの世から去ることで、一時的に光が失われたかのように感じられるかもしれないけれど、実際にはそうではなく、法の光は燦然と輝いている。


これより後、私が地上を去ったあとも、あなたがたは、四十五年間、私が説いてきた教えを、心の糧として生きてゆけ。
私の教えを心の糧として、だれに照らしてもらうでもなく、自分自身で心に灯をともして、自分自身の行く先を照らしてゆけ。
自分の心に法灯をともして、しっかりと生きてゆけ。

釈尊が地上を去ったあとも、弟子たちはそれを悲しんだり、誰かに心を照らしてもらおうとすがるのではなく、

今まで説いてきた教えを心の糧にして、自分自身で心に灯をともして、自分の行く先を照らしてゆくこと(自灯明)。

これこそが、釈尊がこの世を去る時に、弟子たちに伝えたかったことである、と言われています。


私が、長年、あなたがたに説いてきた教えは、自分をつくる教えであり、自分をつくりつつ、他人を救っていく教えである。
私が死んだあとも、自灯明という言葉を忘れず、法を頼りとして生きてゆけ。
弟子たちよ、これが私の最後の言葉である。
『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させよ』」

これが、釈迦が入寂するときの想いでした。

さすがの釈迦も、入寂のときには、ほとんど声が出ず、心の窓をひらいている弟子たちが、その霊能力によって、釈迦の心中の声を聞き、その一部が涅槃経に記録として遺されたようです。


『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させよ』

「自灯明――釈尊の説かれた教えをもとに、自分自身で心の灯をともしていくこと」

これは、当時の弟子だけでなく、今を生きる私たちにとっても、必要な考え方だと思っています。


諸行無常の流れの中で、全ての出会いに感謝しつつ、自分の心の灯は自分でともして、前に進んでいきたいと思います。



今回の記事は以上となります。

最後までご覧くださり、誠にありがとうございました🌷



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