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分離した個について

画家の知覚についてという昨日のブログで、Aという家の外に私がいるとき、私に直接に与えられているのは、Aという家の外観としての感覚的な一連の外観・輪郭です、と書きました。


Aという家まるごとを一度に全部とらえることはできなくて、私が動くたびに変化するアスペクトを感覚することしかできない。


でも私たちは「家だ」ととらえる。


言葉を使うことでそれは概念的な把握となり、辞書にのっている字義的な家となる。


家やビルのような大きいものだけでなく、目の前のりんごや、りんごが置いてあるテーブルも同じように言うことができそうです。


やっぱり、ものの全部を一気に捉えることはできません。


私に見えているその角度からのりんごの一側面を見て(感覚して)、「りんごだ」ととらえる。


この2つのこと、つまり、感覚を経験していることと、言葉で概念としてとらえること。この2つはぜんぜん違うことだと思いませんか。


私たちが直接に経験しているのは感覚のほうです。


ざっくり言うと、この経験の場にいるわたしは内側にいます。外にでることはできなくて、常に内側にいます。


外に出ることはできない。神の視点みたいなところには行けません。


外に出ているように思うのは、思考しているからです。


私たちは思考によって頭の中で巧みに操作することができます。概念操作をすることができます。


この操作によって、外側にものを、人を、世界を存在させて、分離した世界を作る。


それによって私は個となる(ように見える)。


でも経験によりそっていると、それは幻想だということがわかります。


分離は起きようがないです。分離は最初からないです。


そもそも、全体性としての内なので、外は存在しないです。


したがって、個の私はいない。

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