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「マルク・シャガール」展 そして愛を描くことについて

世田谷美術館で開催されていた、マルクシャガールの版画展に行ってきました。

シャガールは好きな画家のひとりなんですが、20世紀の巨匠にもかかわらず展覧会が開かれることは稀なので、世田谷美術館、少しアクセスが難しいんですが、会期終了間近になんとか行くことができました。

千歳船橋駅から1時間に2~3本のバスに乗って、やっと着いた森の中にある世田谷美術館。

これてよかった👐

最初のカテゴリーは、「ラ・フォンテーヌ寓話集」挿絵。

極めて教訓的なそれぞれのお話に、黒一色で描かれた小さなピースが並んでいます。

でも、一枚目を見て、「やっぱりシャガールだ!」と心の中で叫びました。

こんな、目つきの悪い、罠にかかってしまったカラスの、獲物を落として「あ。」という瞬間です。
でも私はこれが誰かの家に飾ってあったって(あんまり飾られないと思うけど)、これがシャガールだって思うと思う。

それだけ、人と違う個性があふれ出て顕著なんです。
自分は何者であるか、がありありとわかっている。

シャガールの絵を一言で表すならば、愛。しかないだろうと思います。
恋人のような妻への愛、そして動物への愛。

他のブースの、「ダフニスとクロエ」、「サーカス」…。
すべての絵からやっぱりそれが感じられて、その感覚はどこからくるんだろうと私なりに絵をまじまじと見たり、別の角度から見てみたり、図録の説明を読んだり、その時もってたショーペンハウアーの本を間に挟んでみたりして考えてみたんです。

愛はもちろん他の画家だって描いている。
というか、皆、愛から創造性は発生していると思うんです。
(そんなことないか。でもつまるところ、愛がなければ何もないんじゃないかしら。)

でも私にとって、
たとえば

ピカソの自己愛、モネの自然への愛、ゴッホの生命への愛、
クリムトの性偏重愛、ドガの少女愛、
マティスの色への愛、レンブラントの光への愛、セザンヌの静謐さへの愛、
ベルニーニの女性性への愛、ロダンの力に対する愛、
ダ・ヴィンチの真理への愛、
クレーの平和への愛、
ブルーナの子供たちへの愛

それらは確かに愛だけれども、
対象を形を伴って感じる、
結局愛を描くとはどういうことなんだろうと。

考えれば考えるほど、
ひとつ思いついても反証も思いついてうまく絶対にこれだといえるものが
わからなかったんです。

こんなに作品から愛を受け取って生きているのに。

たとえば、それを理解しようとつとめること。
こんな一瞬をとらえられるなんて愛がある目でしかありえない、とか。

あるいは、画家が見たものをそのまま描きだしたものを、
愛だと感じるのは自分自身であって画家とは全然関係ないんじゃないかとか。

でもどれも、なんだかピンとこなかったんです。
でも、あれはその例に当てはまらないんじゃないかっていうのがどうしても浮かんできてしまう。

結局、村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチ「壁と卵」より、これだと思う一文を引っ張り出しました。

「真実をそのままのかたちで捉え、正確に描写することは多くの場合ほとんど不可能です。だからこそ我々(小説家)は、真実をおびき出して虚構の場所に移動させ、虚構のかたちに置き換えることによって、真実の尻尾をつかまえようとするのです。しかしそのためにはまず真実のありかを、自らの中に明確にしておかなくてはなりません。」(『雑文集』p.95)

この文章の真実をそのまま愛に置き換えて、小説家を画家におきかえたらまったきに愛を描くとはどういうことなのかという答えになりうるのではないかと。

さすが村上春樹で、その言葉には反証は思いつかなかったのです。
非常に個人的なものとして、私たちの前にそれを差し出すから。

個人的に咀嚼するしかない。

それが芸術作品とそうでないものを分かつ唯一のアンカーであるような気がしました。


でも。
「こんな風に愛されたらきっと幸せに相違ない」と、思わせてくれるのが、シャガールですね。