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JAPAN⇄CANADA 5-2

アルバイトを始めてから悲しいと感じたことはお小遣いを貰えなくなったことです。自分で稼ぐようになったので当たり前と言えば当たり前のことなのですが、着実に大人になっているんだなという事実を肌で感じた出来事の1つでした(といいつ、色んなところでちょこちょこ払ってくれました)。カナダに引っ越してからはお正月のお年玉も無くなってしまったのでそれも悲しいな、と感じました。お年玉に関しては単にお金がもらえない、という理由からではなくカナダに居るから貰えなくなったという文化的な違いを改めて気付かされたからです。以前まみーにお年玉の有無を確認した時に、

「ここはカナダやしね」

と言われたことがあります。まみーの真意は知りませんが、2つの文化の元で育った私にとってはなにか大切なものをなくしたという喪失感があったのです。そのことがあったからかカナダに居ても日本の祝日やお祝い事、行事から一般的な作法まで、どこに居ようが守りたいと思うようになりました。例えばお月見なんかは、ちょっとでも気分を味わえるように空を見上げて月を見るようにしています。当時は和菓子が苦手だったのでお団子は食べませんでしたが今は大好きなので1人でもお団子を食べて楽しんでます。節分は豆まきはせずとも恵方巻きをその年の方角をみて無言で食べたり。作法については小さなことですがお箸の持ち方です。小さい頃からお箸の持ち方がいわゆる「正しい」持ち方ではなかったので、20歳になったしきちんとした綺麗な持ち方を習得しようと一念発起。重い腰を持ち上げ矯正を始めました。最初はなかなか食べ物が掴めず苦労しました。途中から慣れてる持ち方に戻して食事をしたことも何度もありました。ただ絶対出来ると思っていました。理由はだでぃーのお箸の持ち方が完璧だったからです。だでぃーは日本に来るまでお箸で食事をしたことはなかったはずです。23歳のだでぃーが出来たなら20歳の私も出来るでしょという変な自負がありました。おかげで時間はかかりましたが、綺麗な持ち方を無事に習得することができました。きっと昔の持ち方で今食べようとするとできないんじゃないかな、と思います。


さてさて、アルバイトですが最初はなかなか苦労しましたが1ヶ月をもすれば大体のことは把握出来るまでになっていました。私はランチタイムのサーバーとして働いていたこともあり、メニューも多いわけではありませんでした。もともと暗記は得意だったのでメニューの略称や金額も苦労することなく覚えた記憶があります。大変だったのは、ランチは大将(厨房兼店長兼オーナー)と私の2人でやりくりしないといけなかったことです。満席になった時にはもうそれはそれは大変でした。動きを止めることなく、気づけば1時間なんてこともありました。と言っても小さな日本食のレストランなので20席程しかなく、テイクアウトがあってもなんとか出来ていたんじゃないかな、と思います。まかないも美味しかったし雰囲気も好きなお店だったのでこのレストランで働けてよかったとつくづく思います。(カルガリー市にある「だるま」という日本食レストラン、機会があればぜひ!と宣伝を入れておきます)


ランチタイムは月曜日から金曜日の10時半から14時というシフトでした。入ってくるお給料はすごく多くはなかったですが、チップもあったり自由な時間が取れたりと働く環境としては充分でした。毎日バイトがあるのは学校に行ってるようで、ルーティンが出来たことに安心していました。しかし、それも長くは続きませんでした。というのもマーチングで一緒にバンドに入っていた友達から大学のウインドアンサンブルに参加しないか?というお誘いがあったからです。知らない方のために説明をすると、簡単に言えば吹奏楽です。厳密に言えば1つのパートにつき1人ないし2人という少人数の編成で行うのがウインドアンサンブルです。誘ってくれた友達は大学で音楽を専攻していて、大学内のウインドアンサンブルに所属していました。しかしこの年参加したクラリネット奏者の人数が1人足りずレベル的にも相応しい人を、と考え私に声をかけてくれたみたいです。なんとありがたい。誘ってくれたことも嬉しいかったのですが、私の奏者としての技術を認めてくれていたことが何より嬉しく思いました。練習は毎週火木の13時半から15時とバイトの時間と被っていたのでちょっと考えさせてと言ってその日は家に帰りました。


保留にしてもらいはしたものの、心の中のバロメーターは「参加」という文字に向かって上昇していました。そしてどうしたら親とバイト先を説得できるか、ということばかり考えていました。マーチングの練習から帰ってすぐにまみーに話をしました。まみーは私の心配をよそにあっさりいいよと言ってくれました。残る問題はバイトです。火木ができないだけで他の曜日は問題なくできました。そして私はぜひ続けたいと思っていました。せっかく始めたアルバイト、コツも掴んできていたところだったので意を決して大将に話を持ち出しました。一か八か、当たって砕けろ、無理でも次がある、という気持ちでいたのですがありがたいことに大将は私のシフトを変更する方向で調整してくれました。まずは火木に入ってもらえる新しい人を雇い、私がその人のトレーニングを行い仕事を託しました。誘ってくれた友達にも参加の意向を伝えて無事に大学のウインドアンサンブルのメンバーとしての活動を始めることが出来たのです。きっと今を逃すと絶対巡ってこないチャンス、なんとか掴むことができてとても嬉しかったのを覚えています。


この年はなんでもやってみる年にしようと決めていたので、来るもの拒まずで参加を決めました。最初の練習はとても緊張しました。周りは音楽を専攻している人ばかり。もちろん知識は1番下。でも待てよ、と思いました。この状況、マーチングを始めた時と同じだと気づいたのです。出来なくてもいいんじゃないか、自分のベストを尽くすだけ。そう思ってからは地に足つけてウインドアンサンブルの活動に取り組むことができました。出来なくてもいい、と言っても限度はあります。私は他のメンバーより1ヶ月程遅く参加していたのでその遅れを取り戻そうと必死に練習しました。ありがたいことに練習していたものの中に、1曲以前演奏したことがある楽曲があったのでなんとか周りに溶け込むことができました。かくして私は在籍していない大学に、ウインドアンサンブルと日本語・日本文化サークルで週に3回通うことになるのでした。卑屈にもその大学は私が進学を辞退した、いわゆる滑り止めだったのでした。


-つづく-

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