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留学中、たぶん適応障害になった話

たぶんと書いたのは、病院にかかって診断されたわけではなくて、ネットから得た情報をもとにこりゃ適応障害だと自己判断したからだ。


概況

2021年9月から2022年7月まで、約5ヶ月ずつ2カ国に交換留学というかたちで滞在していた。調子が悪くなり始めたのは、2カ国目に移るころで、決壊したのは、5月の第3週目の木曜日。決壊した日は確かに決壊したので、半年経った今もまだはっきり覚えている。自分の記憶力に少し驚いた。笑

原因

原因は大きく分けるとしたら5つある。
1つ目は、シェアハウス生活だ。これが一番のストレスだった。ああ、なんか書こうとするだけで嫌な気持ちが蘇ってくる、、
嫌だったことを羅列しよう。

  • パーティー 22時を過ぎてから何度かインターフォンが鳴り、その度にいくらか人がやってくる。ブロぉぉおお(brotherの略)と叫び声が聞こえる。いや、昨日初めて会ったばかりなのに何が兄弟だ。と突っ込みたくる。のと同時に隣の部屋でこれから始まる騒がしい宴に絶望と怒りが沸き起こる。これが最盛期だと3日に2日くらいの頻度で行われていたのだ。無理に決まっている。初めのうちはそこに混じったこともあったが、楽しさを見出すことができなかった。英語ができないというのもあるし、大人数でワイワイが好きではない。

  • 片付けない キッチンがまじで汚いのだ。作ってる段階で油を飛ばしまくっているし、全然片付けない。汚さにも萎えるし、好きなときに料理ができないのもストレスだった。こちとらお腹すいてるのだ。

  • 壁が薄い 電話の声が本当にうるさい。なんでそんなに毎日話すの、抑揚つけるの。あとは愛の営みの音も。うるさいし、聞きたくないし。

  • 洗濯物勝手に取り込まれる 心が狭いかもしれないが、これも地味に相当腹が立っていた。昼間の太陽に当ててから取り込みたいし、私の畳み方だってあるのだ。(畳んでくれる気持ちは嬉しいけれど)

2つ目は、私にとってハードモード過ぎた。ビザの手続きや家探しなどがだいぶ大変だった。ビザが切れそうだったり、EU圏外に避難したり、次のビザの獲得ために、5回くらい領事館に行ったり。移動の3日前になんとかビザを取れて、移動したけれど、今度は、その国の居住手続きとワクチン証明書の問題などがあった。これまた、絶望的に難しく、心が折れ泣きながら、街を歩き回っていた。心身ともに疲労困憊。このときすでに授業が始まり学校にも行っていた。今考えると恐ろしい。

3つ目は、人と話さなかったことだ。元来、積極的な社交性は持ち合わせていないにしても、調子が悪くなるにつれて、最低限の会話しかしなくなった。友達がほしいとも思わなかったし、つくる力もなかった。誰とも話す気にはなれなかった。自分に精一杯で、全て1人で抱え込んだ。

4つ目は、1人になれて落ち着ける場所がなかったこと。前半、まだ調子が悪くなかった頃は、学校の図書館や幾つかのカフェや公園、美術館など好きな場所がたくさんあって、そこで過ごすことが好きだった。だが、2カ国目に移動してからは、なかなかそんな場所が見つからなかった。たくさんのカフェにも行っていたし、公園にもよく行っていたけれど、どこにも居場所がなくて、消去法で選んでいた場所だった。

5つ目は、単位は取らなければいけない。勉強するべきだ。と、上手く行く気がしないグループワークを1人でやり切ろうと自分を追い込んでしまったことだ。これが決壊のトリガーであった。

症状

まずはイライラだ。イライラは防衛本能から生じるらしい。あれ、私ってこんなに怒りっぽかったけ?って思ったら要注意。それは、心のSOS。ハリネズミみたいに、私は、外から加えられそうな危害に対して棘を立てた。例えば、「片付けてよ」と同居人に言って、「いや今やろうと思っていたから」と返答されるとカチンと来る。片付けてよっと口に出す時点でもう沸点の寸前だし、相手の返答のトーンと表情でもう怒りが溢れてしまう。溢れた怒りをどうするか。暴れていた。殴るとか暴言を吐くとかはしてない。階段をドタバタ上がるとか。私は上の階だったので、自分の部屋で思いっきりジャンプするとか。笑。何してるんだ我、と我に返ると思うが、怒りというかイライラを上手くコントロールできなかった。就園前のこどもみたいだ。

あとは、感覚過敏。音のストレスが多かったため、音に過敏に反応するようになってしまい、余計に音がうるさく、大きく感じられるようになるという負のループ。日常生活の全てが騒がしかった。家の前の道の工事の音で起こされる。朝の7時か8時ごろから始まる。やめてくれ。トラムや地下鉄の走行音や、その中での人の話し声も耳障りだった。カフェのBGMもクラブかと思うくらいの音量に聞こえるし、学校に行っても、人が多く、静かな場所がなかった。家にも人がいるので、話し声も物音もする。何処か無音な空間はないの。そう思っていた。
味覚でいえば、油っぽいものや味の濃いものを受け付けなくなっていった。全体的に食欲がなかったのかもしれないが。

湧水みたいに、何かにつけて、すぐ涙が溢れてくる。
この世で一番優しいのは、頬を撫でる風だと、しっくり思えてくる。

どうやって生きていたのか

調子が悪くなり始めてから、決壊するまでの間は、家も街も学校も好きになれてはいなかったが、学校に行ったり、街を探索したりしていた。学校に行くのはそこそこ辛かった。1時間以上電車に乗るということがまず億劫で、心が拒否する。電車に乗ってしまった後は、学校に行きたくないから、降りずにこのまま乗っていれたらな、どこに着くのかなとか思っていた。まあでも、大学の最寄りで降りて授業に出ていた。授業でも、ついていけてなかった私が悪いのだが、私に対する教授の口調がとても高圧的で、トイレに行くたびに悔しさと情けなさで涙が出てきた。他に2つグループワークの授業を取っていたが、グループの人は授業にあまり来ないし、作業の仕方が雑で好感が持てなかった。お互い様だとは思うけれども。
街を探索するのは、面白かったし、楽しかった。自己完結できる好奇心だけは、ずっと暴走していた。終始ニトロガスでブーストをかけている感じだ。(ニトロガスどれだけ持っていたんだと今になって思う。)ワクワクしているのだけれど、同時にとても消耗している。好奇心と情報の洪水に飲み込まれている。そんな感覚を分かってはいたけど、溺れないように流されることしかできなかった。

そんな日々が続く中、先ほども書いたように、べき思考で自分を追い込んだ。留学してるのだから、ちゃんと単位は取らないと。単位も取らずに帰国したら、奨学金返金しろて言われるかも、、。なんてどんどん不安を勝手に増大させて。そして、グループワークの課題を1人でやってやろうとしていた。そして、課題が難しくあっけなく躓き、そのまま、ここまで溜め込んできた全てのものが押し寄せて、決壊した。学校から帰ってきた昼間の公園で涙が止まらなかった。(家に帰りたくないのでとりあえず公園に行くというまるで家出少年)

心の疲労骨折。

その日と次の日はとにかく寝た。あとは、日本の大学の留学事務の方に、帰ってもいいですかとお伺いを立てるメールを勢いに任せて書いて、勢いに任せて送信はせず、下書きのまま保存しておいた。

外界に居場所がないので、いつもにも増して自分の世界に閉じこもった。自分の世界は外の世界より、息がしやすいし、泳ぎやすい。好きなだけ好きなように広げられる。ただ、ダークサイドがそこらじゅうに存在して、よく落ちてしまう。

少し落ち着くと、検索を開始した。「留学 辛い 帰りたい」とか。いくつか記事は出て来る。ホームシックだとか、友達ができないだとか。こうすると上手くいきますよ。みたいなわかりきったアドバイスや体験談。でもそうじゃないんだよ、そのレベルじゃないのよ。元々の気質も違うだろし。まあそれでもだんだん情報が集まってきて、適応障害というキーワードにたどり着いた。それからは、noteで適応障害のタグが付いた記事を読み漁った。留学という状況の記事はあまり見つからなかったけれど、職場での適応障害についての記事のなかに自分の感じていることが言語化されている箇所を見つけて、そこに寄りかかった。それと、書くこともしていた。頭で渦巻く言葉を外に少しでも出そうと。そうでもしないと、破裂してしまう。

食事も最低限、野菜と果物を意識的に使って自炊を続けた。精神はもうどうしようもできないから、せめて体だけは崩さないようにと。というか、もう一度倒れてしまったら、本当に起き上がれないだろうという危機感がそうさせていた。

課題も1つだけは最終的にできなかったとしても、とりあえずやって行こうと決めて、コツコツやっていた。偉いと思う。(自画自賛)でも、レビューでそうじゃないと言われるたびに泣いていた。

現地で、日本人の展示のお手伝いをした。これはとても楽しかった。唯一、人とまともに交流した期間であった。

課題が終わったあとは隣の国に旅行へ行っている。暴走した好奇心による行動力が恐ろしい。あんなにもズタボロだったのに。でも、ズタボロすぎたおかげで、世界の感じ方が違ったように思う。

帰国後の経過

実家で2ヶ月くらい休んだ。たくさん寝た。いくらでも寝れるのだ。家の前の神社にいる蝉が少しうるさかったけれど、心置きなく寝れるってとても幸せだと思った。でも、帰国したからといってすぐに骨折が治るわけではなかった。耐えられないほどの痛みはなくなり、鈍痛にはなっていたけれど、思う様に動けない。重いのだ。それでも、学校の用事に行き始めたり、2ヶ月たったあたりで下宿先へと引っ越した。大学の授業も始まり出した。やはり、弱っていたままだったが、ぼちぼちやっていった。
日本にいても、グローバルな環境に置かれることがしばしばある。私の記憶のせいっていうのは頭ではわかってはいるけど、留学中にストレスになっていた言語特有の音には未だ心が拒否反応を示す。

今思うこと

心の疲労骨折だから、絆創膏貼って治るものじゃないだよなぁ。と自覚はあって、安静にするのが一番なんだよなと決壊した時点で分かっていた。それでも、帰ると決断をすることもできずにそのまま粘った。無理して粘らなくてもよかったと思う。帰ります。と言って帰ってきてしまうのもありだった。骨折してから、走ることは流石になかったけれど、歩いてしまった。それで治りがおそくなった、おそくなっているのは確かだと思う。

辛い思いはしたくなかったけれど、留学に行ったこと自体に後悔はないし、良いことだってたくさんあった。
このタイミングでなくても、いつか何か決壊してしまうのだろうと言う予感は随分前から持っていた。見えないところで足掻いて強い自分の外縁を必死に支えていた。今の私が欲しい強さはそういう強さではない。この経験で、ずっと身につけていた鎧やら盾が壊されて、弱さに触れることができた。鎧や盾はとても重いものだった。まだ、分からないけれど、おそらく必要だったことのように思う。(希望的解釈)

たくさんの言葉の蔦に絡まりながらつかまりながらサバイブした。その中でも印象に残る言葉。

事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。

ニーチェ





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