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平和を願って*聖フランシスコ病院と祖母

聖フランシスコ病院は、祖母が長崎で最後に大腸がんで入院していた病院です。もう30年前のことです。
あの時祖母は82歳で、母は他界していたのでわたしが会社を休んで2ヶ月つきっきりで付き添いしていました。
祖母が検査で診てもらっている間、急ぎバイクで自宅に帰りシャワーを浴びに家に帰って30分で病院に戻ったりしていました。
祖母は五島の出身で訛りがあるので看護師さんが理解できない言葉があって、そんな時はわたしが通訳していました。

真夜中、見回りに来た看護師さんに

「まっとばちょうだい」

と言う祖母。横の長椅子で寝ていたわたしは、寝ぼけながらその会話を聞いていました。
看護師さんが
「まっとば?」
と聞き返してました。
「まっとばさ」
と言う祖母。
眠くて眠くて、そんな会話をうつらうつら聞いていたわたし。
トイレのことなんだけどな、と思いながら口が動かない。
「トイレするのをちょうだい」
という意味です。つまりオマル。
2ヶ月病院で付き添って一番覚えている笑ってしまった思い出です。祖母はもう手術しても助からないと先生から言われていました。
だけど、祖母は五島の家に帰りたいとずっと言っていました。

聖フランシスコ病院はカトリックの病院で、一階の端には教会があります。
わたしは祖母が眠っている時に夜こっそり教会に降りて、祈っていました。

「神様どうかお願いします。おばあちゃんを五島に帰らせてあげてください。五島の家の畳に眠らせてあげてください。ご先祖様、全員聞いてください!親戚一同集まって神様に直談判してください。おばあちゃんを五島に生きて連れて帰らせてあげてくださいって、神様にお願いしてください!わたしの声が神様に届いてるかわからないから、神様にもっと近いご先祖様お願いします!」

とても勝手なお願いだけど、そんなことを祈っていました。
暗い教会にはシスターが数人静かに祈っている中で、ただの一般人のOLのわたしがとても奔放(笑)な祈りを捧げていました。

祖母は手術をしました。ナースステーション前の病室に移り、しばらく眠りから醒めない祖母。もう目覚めないだろうと思われ、神父様が終油の秘蹟(しゅうゆのひせき、カトリックが臨終の時にする儀式)を授けに来て祈りを捧げている時、祖母がうっすら目を開けました。
カトリックの教え方(教師)をしていた祖母は目が覚めた時、神父様が何をしているのかわかったでしょう。
どんな気持ちで神父様の言葉を聞いていたんでしょう。

祖母はそれからすっかり目が覚めて、ぐんぐん元気になりました。
自分の足でトイレに歩けるまで回復しました。そうして、退院しました。ナースステーションの前の部屋にいたのに、その足で立ち上がってナースステーションにいる看護師さんに「お世話になりました」と言いました。看護師さんはみんな、祖母の回復ぶりに驚き、おめでとうと笑ってくれました。

祖母は五島に帰る船に乗りました。わたしは祖母に付き添って、一緒にフェリーに乗りました。
頭に巻いたスカーフのアゴのところを手で掴んで、畳にちんまり座る祖母。孫であるわたしを祖母は
「お嬢さん」
と呼びました。

「あなたがいなかったら、わたしは生きていけなかった」

と言いました。
小さい時からわたしを可愛がってくれて、膝の上で聖書の絵本を読み聞かせ育ててくれた祖母でした。
そんな祖母がわたしを忘れました。だけど、この言葉を聞いた時、笑ってしまったのと嬉しかったのと、わたしは祖母をとても愛していると、とってもとっても温かい気持ちになりました。
わたしのことなんか忘れてもいい。わたしはずっとおばあちゃんが大好き。

五島に着き、祖母は病院に入院しました。
「ここは五島か?」
とわたしに聞く祖母。
「そうよ」
と答えると、ほうっと安心したようにため息をついて、病院の窓から見える緑色の山を見ていました。
おじさん(祖母の長男)に祖母を託し、病院を後にして、わたしはフェリーに乗って長崎に帰りました。当時わたしは婚約していて、お腹には小さな命が宿っていたのですが、帰りのフェリーの中で出血しました。
産婦人科に行き、診てもらったら心臓が動いておらず、わたしは我が子の命を落としてしまったのでした。

翌年、祖母は五島の我が家の畳の上で息を引き取りました。
わたしは連絡を受けて夫と一緒に五島に行き、可愛く愛しい小さな祖母の寝顔にさようならをしました。

祖母の最期は言葉はなく、布団の上で笑顔でおじさんのお嫁さんに手を合わせて「ありがとう」をしたそうです。
そうして、友達と踊っているのか、盆踊りをしているように手を上げて笑顔で舞い、それからスウっと命を終えたそうです。

わたしは祖母の最後の様子を聞いて、聖フランシスコ病院の教会でご先祖様に直談判して神様に頼むように言って良かったと思いました。
おばあちゃんは安らかに幸せにこの世を去ったのだと確信しました。

病院の入り口には聖フランシスコの銅像があります。
なぜここがカトリックの病院で、なぜ聖フランシスコ病院という名前なのか知りませんでした。

祖母が入院していた当初、秋月辰一郎先生は病院の顧問を勤められていたのを今日Wikipediaで知りました。総回診にも部屋に来られたに違いありません。


映画では、病院が戦時中は煉瓦造りの神学校だったと言っていました。
外国人の神父様を軍人から連れて行かれた後、国からここを取り上げられないように病院として運営しようと考えて、メガネ橋の前に今もある病院の院長先生に、そこに勤める若いお医者さんに来てもらうようにお願いし、着任してくれたのが秋月辰一郎先生だったのだそうです。

病院になったばかりの聖フランシスコ病院は、新型爆弾で長崎が焼き尽くされた時に煉瓦造りだったお陰で倒壊せずに済み、たくさんの患者さんの治療にあたったそうです。

祖母は、そんな病院に助けられました。

そしてその後わたしも助けられることになります。


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