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好き、は時に苦しくて

「好きなことは心を軽くしてくれる」し、
心地よいものだと思っていた。

いや、そうではあるのだけれども。

無条件にいつでも楽しいとか、いつでもストレスフリーでいられるものではない。
向き合おうとするほど、そして向き合い始めると、苦しい場面もたくさん出てくるのではないのだろうかと昨日からぼんやりと考えている。

私は「それなりに雰囲気を楽しむ」ことが苦手だと気づいた。
参加した場でその時の雰囲気を楽しむ、とか与えてもらうことをただ享受するとか。

私が趣味だとしていることは消費することが多い。
スポーツを観る、とか、ライブに行く、だとか。
それでも、スポーツを見るならば前情報はできるだけ入れていきたいし、その場で何か考える余地がないか、と探している。(と最近気づいた)
ライブに行く場合もそう。アルバムのコンセプトツアーならアルバムの曲順に聞いて、歌詞を口ずさめるぐらいまでは覚え、「自分ならこういう順番にする」を考える。ライブで幸せな時間を楽しんだ後は、「何でこういう曲順だったんだろう、何を伝えたかったのだろう」「なぜアンコールにこれを持ってきたのだろう」とひとしきり考える。

考えたところでわからないし、正解「らしい」ものは語られたりするのかもしれないけれど「雰囲気で決めた」と言われたらもうお手上げ。
野球だっていくら考えたところで、目の前で広がっている勝負にシナリオなんてない。あくまで確率論や傾向であって、それが覆っていくのもまた楽しいと思う。

そこに創造があるのだろう。クリエイターと消費者の大きな差。
どこまで憧れたって、近づこうとしたって、決して埋まらない差。

好きな物に対して本気であることは、きっと周りに伝わる。
「すごいな」と思うと同時に心のどこかで「悔しいな」と思ってしまうのはなぜだろう。
消費することに対する引け目なのか、本当は何かを作りたい、考えたい、同じ目線に立ちたい、とおこがましくも考えているのだろうか。

ただ、そこにいて、空気の様になっていて、自分の心も動いてなくて、
「きっとあそこまで行くと楽しくなれるんだろうな」と羨望の眼差しを向けている自分に気づくと、ふとつらくなる。

ああ、やっぱり何も持ってなかったって。

もちろん、そこにかけた時間とかはらった犠牲はつきものだと思う。すぐに手に入るものなんて才能に満ち溢れているか、それなりのものか、どちらかだ。

最近はとても意識が内側に向いている。
すごい、と思うなら手が届くまで努力をするのか、「それなりでいいよ」って割り切れるものなのか。
どちらにしても、できない状況でいるっていうことが自分にとっては苦痛で、ストレスだった。
そういえば、バスケだって、ピアノだってそうだった。

ルールが分かって、相手に通用して、
楽譜を見て初見で両手が動いて、好きな曲が弾けて、

毎日走り込むのは苦痛だったし、
毎日疲れて帰って指を動かすのは面倒な日もあったし、

もしかしたら、野球だってルールが分からなければ、
家で毎日の勝ち負けに一喜一憂しているだけだったら、
ここまで好きになっていなかったかもしれない。

好き、と本気、の持つ力の大きさにあてられた11月。
どこまでやれるのか、何をやりたいのかの対話で始まった12月。
2019年、どんな感じで終わるんだろう。
2020年は何を見ているんだろう。自分でもわからないのが楽しい。

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