見出し画像

朝の道(テーマ:道)

S駅のA1出口を出ると、職場まではまっすぐの一本道で、ゆっくり歩いても10分はかからない。

実は、何年も前から気になっている男性がいる。彼に会うのは、決まってこの道のどこかで、それは朝によって違う。病院の前だったり、立ち食いそば屋の前だったり、一度だけ駅の改札ですれ違ったこともあった。

彼がどこの国から来たのか、私は知らない。アメリカではないだろう。ヨーロッパでもなさそうだ。私はトルコだと見当をつけている。少し前に日本語を教えていたトルコの学生に顔立ちといい、雰囲気といい似ているからだ。格闘技をしているような体型で、服装はジーンズにシャツが多い。いつも顔を上げて、微笑みを浮かべて歩いて来る。
「気持ちのいい朝だな。よし、今日も頑張るぞ!」
そんな彼の声が聞こえてくるようだ。周りを歩く日本人があまりにも無表情なので、彼の微笑みがますます際立つ。

彼は3回に1回は女性を連れている。奥さんなのか、まだ彼女なのか、私は知らない。二十代前半のたぶん日本人だろう。どちらかというと地味で、おとなしそうで、やさしそうな人だ。

いつだったか、私が2本早い地下鉄で来た朝、彼になかなか会えなかった。私はもうすぐ職場に着いてしまうと、あきらめかけたその時、二人があるマンションから出て来た。ここに住んでいたのか! そのマンションは、私の職場のすぐ近くにあって、たぶん分譲マンションではなく、1DKか2DKの賃貸マンションだろう。それは私が初めて手に入れた、彼についての確かな情報だった。

それから数ヵ月が過ぎたある朝、私は嬉しい発見をした。彼女のお腹が少し膨らんでいたのだ。そのお腹はどんどん大きくなって、いつからか、彼女の姿を全く見なくなった。出産休暇に入ったに違いない。一人で歩く彼とすれ違う度、安産を祈った。

それからまたまた数か月が過ぎても、彼女の姿はなかった。引き続き育児休暇に入ったのだろうか。

どのくらいたっただろうか。あいかわらず、すれ違うのは彼だけだった。私の考え過ぎだといいのだが、最近の彼はどことなく寂し気で、あの微笑みが半減しているような気がした。彼女は無事出産したのだろうか。ひょっとしたら、最悪の事態になっていて、彼女と子供を同時に……。私の想像は悪い方へ悪い方へ膨らんでいた。出来ることなら、彼を呼び止めて聞いてみたい。でも、何て聞けばいいだろう。
「私はあなたのことを3年以上も前から知っています。奥さんはお元気ですか。赤ちゃんは男の子でしたか。女の子でしたか。お元気ですよね?」
と言ったら、彼はどんな顔をするだろう。いっそのこと、二人の部屋の玄関のベルを押してみようか。まさか、そんなバカなこと、できるはずがない。

いよいよ私がストーカーになりそうなある朝、とうとう会うことができた。彼がいつものように向こうから歩いて来たのだが、小さな子供を抱いている。着ている服から遠目にも男の子だとすぐに分かった。どんどん近づいて来たその時だった。彼が突然抱き直し、子供の顔が見えた。目がクリクリしていて、とってもかわいい! すでに日本人離れした顔立ちだ。彼はというと、満面の笑みをたたえていた。
「ご心配おかけしましたね。見てください。お腹にいた子がこんなに大きくなりましたよ」。
そんな声が聞こえたらいいのだが、彼にとって私は大勢の日本人の一人にすぎない。でも「よく会う人」ぐらいでいいから覚えてくれていたら嬉しい。

その朝を境に、毎朝のように男の子を抱いた彼とすれ違うようになった。男の子はぐずることもなく、いつもニコニコしている。彼と同じ微笑みだ。

最後に、書き添えておきたいことがある。遅刻しそうになった朝、元気そうな彼女とすれ違ったことを。

(テーマ:道  2020年3月に書きました)

最後まで読んでくださり、ありがとうございました m(__)m あなたの大切な時間を私の記事を読むために使ってくださったこと、本当に嬉しく有難く思っています。 また読んでいただけるように書き続けたいと思います。