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ブラジル人に間違えられるようになった17歳

昨日は自伝的小説『南十字星』マガジンの加筆訂正追加記事についてお知らせ致しましたが、正直、私にとって、ブラジルでの生活を思い出す事って可成りしんどい事でした。それは『南十字星』を読んでくださった方でしたらおわかり頂けるかと存じます。(『緋色の三日月』も結構しんどいものでしたが)

20歳直前だった当時の私は、ブラジルでの出来事を一切なかった事にしたく、ブラジルでの写真を始め、記憶に残りそうなものは全て燃やして帰国しました。ポルトガル語を耳にするだけで吐き気や目眩がする程でした。

ですが34年後の今、思い返すと、せめてあの当時の写真一枚でも取っておけば、と、思う事もあります。時薬とも言いますが、漸く私の中でトラウマが消えたのでしょうねえ。で、自伝小説の扉絵を、泉麗香さんに描いて頂いております。

そのような中、ず〜っと絶縁状態だった父との縁が戻り(この父もまたしんどかった)、父が少しだけ取ってあった私のブラジルでの貴重な私の写真を送ってくださいました。

この写真はブラジルへ行って間もない15歳の頃、英国人同級生と何かのパーティーで撮影したものです。⬇️(この子は兄弟で歌が上手で、お兄さんはギターを抱え将来歌手になる!と言っていましたがここだけの話、お兄さんよりあなたの方が素質あるわよ、将来プロになるかも、と言っていました。現在彼は、英国でギターを抱えプロのシンガーソングライターになってます)15歳の私、初々しかった。

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16歳になり、インターナショナルスクールでの生活も慣れて、英語も話せるようになり、楽しく過ごしていた頃の写真です。⬇️現地のブラジル人の友達も少しずつできて来た頃でしたが、元々色白なので中々肌が焼けないのが悩みでした。外を歩いていると日本人=お金持ち=狙われる、誘拐される、最悪殺される、という、ブラジル新参者と思われる危険がありました。インターナショナルスクールから出たら、英語や日本語は禁止、ポルトガル語のみ使うよう厳しく指導されていました。夜の外出も勿論禁止、一人での外出も禁止でしたが、禁止事項など守るような私ではありませんでしたから、夜はブラジル人の友達とクラブへ通い、一人でフラフラ出歩いていました。遊びたさ一心で、少しでも日系二世ブラジル人に間違えられるよう、一生懸命肌を焼き、ポルトガル語を覚えました。(ブラジルには日系人が多く、二世の友達が多かったです。私はバスに乗ったり、外を歩いている時等日本人の顔をした日系人の女の子に会うと、友達になろうよと積極的に声をかけてナンパしていました)あ!そうだ、昔2ちゃんねるスレで整形疑惑を書かれましたが、16歳のこの私をご覧くだされば、天然という事の証明になりますね😊

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そして17歳の私!⬇️白い肌を無理矢理焼いて、ここまで黒くなりました!
もうどこから如何見ても日系二世ブラジル人と思われるように。『モレーナ(褐色美人)』の仲間入り〜ヽ(´▽`)/  歩いていてもポルトガル語で話しかけられるようになりました。観光客のように狙われる危険もなくなり、ブラジルに溶け込み夜な夜なクラブで馬鹿騒ぎ、水を得た魚のようにブラジルライフを満喫していた最高に楽しかった頃です。写真は、父からおそらくアルパカのコートをプレゼントしてもらい、こんなの一生着ないから!と、突き返してるところのようです。北海道に帰ったら着るだろう、と言う父に、いや、私もう、帰国しないしブラジルに永住するから、ごめんね、と、心の中で思っていたのでした。

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しかしよくもまあ遊びたさ一心でここまで黒くなった私。17歳にしてはケバいし相当遊んでますよ私、って顔ですねえ。無謀にも毎日のようにビーチへ通い続け全身焼いたものでしたが、帰国するとあっという間に真っ白の肌に戻ってしまい、現在はこの頃のツケで、シミに悩まされる事に😂

こういう風に微笑ましく眺められるようになったのも今が幸せだからかなあ🇧🇷✨

ちなみに私が住んでいたベレン市は現在、世界の治安が悪い大変危険な都市ベスト10にランクインしています、ハハハ。( ̄▽ ̄) あまり嬉しくない事です。

有難く頂戴致しましたサポートは、動物保護施設への募金及び易経研究の為に使わせて頂きます💓