【オーストラリア】1年のワーホリを振り返って(前編)-ブリスベン編-
こんにちは、Marです。当ブログに訪問いただきましてありがとうございます。
当ブログでは、ワーキングホリデーを利用してオーストラリア、イギリス、ニュージーランド、カナダと滞在している筆者が自身の体験や日常生活をシェアしております。
今回は私がオーストラリアに滞在していた2016年~2017年のまとめ記事を転記したものとなっています。どうぞ最後までご覧ください。
(動画は私のYouTubeチャンネル『Mari the world』過去動画より。)
基本情報
滞在時期と期間
オーストラリア滞在期間-2016年8月から2017年8月まで
滞在都市-東海岸ブリスベンで8ヶ月、西海岸パースで2-3ヶ月、残りの期間約1ヶ月を旅行
英語力の変遷
渡航前:TOEIC750点、IELTS5.5
渡航後:TOEIC930点、Cambridge英検FCE取得
英語力の変遷についてはこちらの動画にて詳しく話しています↓
9月 語学学校とホームステイ
日本からブリスベンに到着。5週間のホームステイおよび1日数時間の語学学校が始まる。
この時は英語を学びに行っていたというよりも、始めてのワーホリ生活を始めるのに友達ができる環境がほしかった、という感じだった。
フィリピンで学校に閉じこもり勉強していた生活と打ってかわり、通学をし、新たに友達を作り始める事に戸惑いを覚える。
最初の数週間はホームシックで毎日心細い思いをしていた。
また、語学学校の日本人の数がハンパじゃなく、休み時間の度に聞こえる日本語にへきれきとしたのを覚えている。どうやら私が選んだ学校はこの時期、交換留学生でビジネスが成り立っているらしかった。
(1ヶ月通っていた語学学校の敷地内。大学内に語学学校が併設されている)
(9月の終わり、受けていたビジネスコースのクラスメイトと一緒に)
私が受けていたビジネスコースは「IELTS5.5以上じゃないと受けられない」という足切りがあったので、他のESL(一般英語)コースに比べると日本人はそこまで多くなかった。
慣れてきた頃、卒業となった。
通っていた期間が短かったのと、最初の頃は生活に慣れるのでいっぱいいっぱいで宿題をやる余裕もなかった。正直、友達ができた事以外あまり収穫はなかったように思う。(そして高かった(泣))
10月 シェアハウスと仕事探し
ホームステイは高いので、シェアハウスへと引越し。
どのサイトを使ったかははっきり覚えていないが、たしかこのサイト(『Flatmates.com』)だったように思う。
ホームステイが終わる1、2週間前から家探しを開始し、日本人の家主と韓国人の30代女性が暮らす、CIty中心部よりバスで20-30分ほどのフラットに週AU$150で住み始める。
(実際に住んでいた家)
(実際の部屋の様子)
実際に住んでいた家。ここには年明け1月まで、3ヶ月くらい住んでいた。
4年も前の話なので覚えてないこともあるが、ZONE4-5(CBDからバスで30分ほど)で家賃はAU$150/週だった。
オーナーの日本人女性はオーストラリア滞在歴20年以上。お願いして、英語で会話をしてもらった。
学校もなくなったので、仕事探しを始める。
日本にいる時から色々仕事の探し方等を調べておいたが、レジュメ(履歴書)は英文のものを用意していなかった。
家主の日本人Tさんの紹介で、添削してくれるオージー(Australia人の意味)を紹介してもらう。
おかげで中々いい、ホスピタリティ用レジュメができた。
とはいえ、今まで飛び込みでレジュメを配った事などない私。
いくら海外はフレンドリーでそれが普通と言われても、メンタリティはまだ日本にいた時のまま。
印刷したレジュメをもってショッピングセンターのベンチに座り、気づいたら30分経っていたなんて日もあった。
ここで、過去のブログのエントリー(現在は非公開)を引用しよう。
最初の頃はnative環境のcafe等を狙っていたが、恐れおののいて話を聞いてくれても上手くアピールできず。
ワーホリに来たからには英語を伸ばすぞ!と意気込んでいたものの、減っていく残高と仕事を探し始めて3、4週間経っていた事の焦りから、フィリピンで勉強していた時からあれだけ避けようと思っていた日本食レストランで働く事に。
当時の葛藤がみてとれる。
この頃、オンラインアプリや図書館の無料英語教室を使って友達を作り、それなりに英語を話す時間は確保していたようだ。(昔の記憶を手繰りよせる)
11月 仕事開始
実際に仕事を始める。
以下は当時のブログ(現在は非公開)からの引用。
こちらが当時いただいていた賄いのラーメン。今でも味を思い出せる。
オーナーとマネージャーにはよくしてもらった。
この頃はかけもちで仕事をし、お金の心配はなくなってきたものの、私生活(おもにシェアハウス)でも職場でもストレスが溜まり、ワーホリドリームが崩れ始めていた。
とはいえ、嫌な事ばかりではない。
別の職場の面接で一緒になった台湾人の男の子や、図書館の英会話レッスンで仲良くなった別の台湾人の女の子と一緒に遊ぶようになったのもこの頃だ。
中国人の経営するcafeに面接に行った時に友達になった、台湾人のJ君が作ってくれたお好み焼き(´▽`)
ブリスベンで一番仲良くしていた同じく台湾人のD♡
(20年11月に1年ぶりにテレビ電話した)
また、シェアハウスのオーナーの日本人Tさんが、人生初のゴルフ打ちっぱなしにつれ出して下さったのもこの頃だったろうか。
毎日迷い、悩みながらも泥臭く働き、友達に支えられた月だった。
12月 職場の変更
以前のブログから引用:
諦めずに探してよかった。
とりあえずで働き始めた2つのレストランを辞め、ジャパレス(日本食レストラン)ながらも英語環境の仕事につけた事で心もふところ具合も満たされ始めました。
がんばって仕事探しを続けた甲斐があった。
働いていた職場の同僚と。アジアンチックな見た目の皆ですが、オーストラリアで生まれ育ったオーストラリア人。
彼らの英語が早すぎていつも会話にはついていけてなかったけど、それでも日本人だらけのジャパレスから抜け出せた事がとても嬉しかった。
私生活では職場の同僚のフィリピン人女性の家で小さなクリスマスホームパーティに呼んでいただいた。普段韓国人や台湾人の友達と遊ぶ事が多い私にとって、フランス人やオランダ人と話をするのはほぼ初めての経験だった。
(画像が粗くてすみません)
停滞気味だった10月、11月に比べて、華やかな出来事が多かった12月であった。
1月 イギリスワーホリに当選する
この頃、私には間もなく自分の国に帰国しなくてはならないアジア人の彼氏ができていた。
また、Wでありがたい事が続いた。それは当選が難しいと言われるイギリスワーホリ(通称YMS)に当選した事だった。
(実際に届いたメール)
難しいと聞いていたのでダメ元で応募したが、当選した事をEメールで知った時には飛び上がって奇声を発していた気がする(笑)
だがしかし、理想の職場と思っていた日本食レストラン(英語環境)から解雇されてしまった。
理由は、お店側が「人を雇い過ぎてしまった」から(爆)
店側がどれだけ儲かると思っていたか知らないが、味は正直イマイチだったので(日本人シェフゼロ)当然と言えば当然だ。
私がクビになったのは働き始めて4週間ほどだったが、その2週間ほど前からどんどん見慣れた顔がなくなっていって同僚から「クビらしいよ」と聞き、当初30人いたオープニングスタッフが10人ほどになった時には「次は私だな」と腹をくくっていたので、心の準備はできていた。
この頃にはある程度お金も貯まっていたので、そこまで焦っていなかった。
過去ブログより引用:
そんなわけで、仕事を探すよりも彼が帰国するまでの間に1日でも多く一緒に時間を過ごす事が大切だった。結果的に、なかなかいいタイミングで職を失ったものである(笑)
当時の心境:
彼とは遊園地に行ったり、コアラを抱っこしに行ったり、一緒にいれたのはたった数ヶ月でしたが素敵な時間を過ごせました。
2月 意外な場所で次の仕事が決まる
無職になって2週間ほど経った頃。
もう2ヶ月くらい前にアプライしていて、「もうここで働く事はないだろう」と思っていた食品工場から電話がかかってきた。
「Are you still looking for a job?」「Will you be able to come this week for an induction?」と聞かれたあと、インダクションや簡単な健康診断、銀行口座等ペーパーワーク等の行程を経て、2月から無事に働き始めました。
当時の心境
工場までは市内から距離があり、周りは基本車通勤。
という事で、引越しをしました。
新しい部屋。ここは実はブリスベンで3件目。(いや、4件目か?)
気軽に引越せるのもワーホリの魅力です。
ベッドは2つあり、元々シェアルームですが、交渉してオウンルーム(個室)でAU$150/週でした。
ここの工場はなぜか韓国人ワーホリメーカー/永住者に大人気で、その後3-4ヶ月働きましたが日本人には1人も会いませんでした。
シェアメイトの台湾人の女の子も同じ工場で働いていましたが、違うラインなので職場で会う事はあまりありませんでした。彼女、元気にしてるかなぁ・・・。
これがまた最高にダサいでしょ!?
かっこ悪いところも隠さず出しちゃうのが本当のシェアリング。
こうやって紙の帽子かぶって髪の毛が落ちないようにするのである。
まぁでも、人生経験含めてワーホリだし、ここは英語環境(といっても機械音+耳栓で休憩中くらいしか会話できないけど)、そしてお給料も時給AU$20超えで、ワーホリメーカーならず永住者からも人気の職場だった。
最初の数週間は無駄に長い研修を受けるだけ。
その後、少しずつ「Train」されていく。
私のチームの同期は韓国人(ワーホリメーカーの20代男女3人)とオーストラリア人女性1人。
仕事内容は何も難しい事はない。長くなってしまうので今回は省略する。
(またいつかのタイミングで詳しく書こうと思う)
本当、彼が台湾に帰ってしまったあとだったので、工場の単純作業の合間に涙が出そうになる事もしばしば。よく「仕事に救われた」なんて失恋後の話を聞いたりするけど、カジュアルジョブでもフルタイムで働いていて良かったと思う。
私は早番シフトとして雇われたので、朝の6時半に始業開始し、15時頃には終わっていた。
自転車で20分、家に帰宅してから当選したイギリスビザの申請を進めた1ヶ月だった。
3月 冷蔵庫の中で働く日々
月曜から金曜まで働く毎日。以下、過去ブログより引用。
オーストラリアが稼げる、というのは本当だった。この記事を執筆している時点でニュージーランドにいるので、今大きく頷ける。オーストラリアはニュージーランドよりも稼げる。工場内にKiwi(ニュージーランド人の事)が多かった事もその事実を裏づけていた。
本を執筆 (いつになるか未定)したタイミングで、当時の稼ぎもお見せしたいと思う。
そう、実は大家の勝手な都合で3週間ほどして引越さなくてはならなくなった。
引越した先の物件の方が大家も優しく快適だったので、今振り返ると良かったのだが。
そう、食品工場なので工場内は冷蔵庫のように保たれている。
食事もちゃんとしたものを食べていなかったので、慣れない仕事に寒い職場、忙しい日常と色々な要素が重なり体調を崩した。
このconversation classに行った記憶は3年以上経った今はないに等しく、どれに参加していたのか思い出せない。
基本的には職場と家の往復だと思っていたので、過去記事を読んで驚いた。
ちょうど次の身の振り方ーブリスベンか他の都市へ行く事ーも考え始めたのもこの頃からだった。
そう、この仕事がオファーされてなかったら西海岸のパースへ行こうと思っていた。
ただ、お給料がいいので3-4ヶ月貯金してから移動しよう、そう思っていた。
また、オーストラリアの定番、BBQをチームメンバーとしたりした。
(別段仲がよかったわけではない)
撮った人がスマホの使い方に慣れておらず、見つかった写真すべてブレブレでマシなのがこれ(笑)
彼女の自宅の庭に野生のカンガルー現る。さすが自然大国、オーストラリア。
4月 恋の予感も、気持ちはパースへ
工場で働きながら、気持ちはワーホリ後半戦に向いていた。
おかげさまで工場で働く前は$2000だった残高も$5000を超え、これでイギリスビザ申請代金や残高証明もバッチリ。
4月上旬にブリスベンCBDにイギリスワーホリビザの申請に行き、全部自分で準備したので書類に不備がないかなど、ドキドキしながらも無事に手続きを終え、あとはビザがおりるのを待つだけとなった。
結論からいうとビザは無事におり、パスポートもパースへ渡航した5月までには返ってきたのだが、この時は正直不安だった。
ちょうどこの頃だっただろうか。
職場で先輩として工場で働いている20代前半のオージー(オーストラリア人)男性が気のある素振りを見せるようになったのは。自分の中ではパース行きを固めていたので、別にどうこうする気はなかった。
この頃には元カレについて考える事もあまりなく、明るさが戻っていた。
彼にも職場を4月いっぱいで去る事は伝えていたのだが、ある日仕事を終えるとこんな事を言われた。
こんな感じで、よく分からないアピールがたまにあったが、私の決断は堅かった。
ちなみに、3月に引越してきたシェアハウスはこんな感じだった。
ここには2ヶ月ほど住んだ。家賃AU$150/週。
さて、ここまでだいぶ長くなってしまったので、続きはまた別の記事で書いていこうと思う。
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以上、ここまでが別サイトに載せた記事の転記になります。
あれから3年後、カナダにいるとはねぇ。
世の中、何があるか分からないものです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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(2020年11月 カナダより更新)