小学生の私は母親のカウンセラーだった(カウンセリングルームを開業した個人的な話5)
※カウンセリングルームの経営に役立つ普遍的な話は、個人的な話の後に書く予定です。
ここまで目次に沿って書いてきました。
今日は、「第1章 カウンセラーになるまでの土壌が作られた時代」の最後の項目になります。
プロローグと、最初の項で、幼少期から母の話をよく聴いてきたということには触れていました。
そのことについて、少し詳しく書こうと思います。
家族に起きたこと
「それ」が始まったのは、父母が購入した新しい家に住み始めた小学2年生の頃からでした。
「それ」というのは、父と母の間に流れる空気が、時々不穏になってきたことです。
最初から父は単身赴任でした。3日に一度くらいのペースで帰っていましたが、次の転勤では更に遠隔地に行ってしまい、毎日家にいる期間はかなり短かったと記憶しています。
私にとって、父が家にいることは嬉しいことで、父が帰る日だと聞くと、家から少し離れた大きな道路まで、父の車に出会えないかと何度も見に行ったものです。けれど、そのことを母がよく思っていないような雰囲気を、ある日なんとなくですが感じたのです。
時系列がはっきりしないのですが、その一方で、新築した家で、家族で穏やかに食卓を囲んだ思い出もあります。父母が晩酌をしながら語り合い、子どもの私たち兄妹にもいろんな話をしてくれました。
休日に、兄も含め一家総出で庭づくりをした思い出もあります。
大きなコンポでレコードをかけ、父母の趣味だったという社交ダンスを母の声掛けでみんなで踊って遊んだりと、その他にも家族の楽しい思い出が沢山ありました。
おそらくですが、何かの機会に父母の間に亀裂が入ったのだと思います。
ある朝起きると、トイレに香水の匂いが漂っていました。
母に聞くと、「父さんに『離婚しよう』と言ったら、お酒を飲みすぎて吐いた。匂いがきついから香水をまいた」というようなことを説明してくれました。
「離婚」。
ショックな話です。
母の奇妙な行動
また、そこから更に時間が経って、父は後の再婚相手の家に通うようになった時期がありました。
母は、勘が働くのか、その現場(後の再婚相手の家の前に父の車があること)を押さえようと、4,5㎞離れた場所へと足繫く自分の車を飛ばして偵察に何度も出かけた時期がありました。
その時に、必ず私を助手席に乗せていたのです。
私は、何も知らずに乗っていたのではありません。
事情をわかった上で、黙って助手席に乗っていました。
母が、その時々の成り行きや、もし母自身が相手に見つかった時のために私が隣にいたほうが都合がよいことなどを一人で話続け、私は黙ってそれを聞いていました。真っ暗な窓の外の景色、流れる木々をただ見つめていました。
10歳やそこらの子供に、父に対する母の「恨み節」を聴いて、できることは何があるでしょう。
何も、話せませんでした。
ただ、黙って聞いていました。
心は、あまり動きませんでした。
本当に、何も感じないような気分でした。
話が前後しますが、もう少し年齢が低かった頃、2階の自室でベッドに入った後に、階下で父母が大声で喧嘩することがありました。
その時は、胸が張り裂けそうな想いで、文字通り枕を涙で濡らしていました。
何も感じないような気分になったのは、心が自分を守るためにつらさを感じないようにしていたのかもしれません。
家族の最後
最終的に出来上がった構図は、母は父が嫌い、母は兄が好き、そして、私が母からもらった言葉は「お前は父親に似ている」でした。
それなのに、父に対する愚痴をもらす相手は、私の方が多かったように思います。
私の心は凍りつくのに十分な環境だったのかもしれません。
結局、父母は離婚し、そして、直後にお互いに再婚するのです。
子どもたちには一切の相談がありませんでした。
そして、母は、自分の離婚、再婚にまつわる話を、まるで女友達にするかのように、私にするのです。
結局、再婚した後も、今度はその相手との確執が繰り返され、私の中学、高校時代に至るまで、母の話を聴くことになりました。
母と私の関係
こういった家庭のことと並行して、母は一貫して仕事を頑張っていました。
再婚相手にも気を使っていました。
兄のことも気にしていました。
母にとっての私の優先順位はせいぜい4番目くらいだったのではないか、と思うのです。
その証拠に、私は、母の話を聴いたり(聴かされたり)、母が私の進路を勝手に決めたりすることはあっても、私に訊くことは「誰と遊びに行くのか」くらいに限られていたからです。
私が将来何をしたいのか、何が好きなのか、それを私は口にする権利はないようでした。
少し乱暴な話ですが、母にとっては、私は都合のよい時に自分の話を黙って聴いてくれる小さなカウンセラーだったのではないか、という気がします。
小さい私は、家のことを誰にも話せませんでした。
高校生くらいになると、かなり親密な友人もできてきますが、家の中のことはなかなか話せるものではありません。
大人になってからも、時々高校の同級生で集まることがありましたが、お互いに、思春期の頃、少なからず家庭で問題を抱えていたことを知ったのは、40歳を過ぎてからだったと思います。
それも含めて、守秘義務を固く守る母専属の小さなカウンセラーだった、と言ってもいいのかもしれません。正確にいうと、「母の話を聴く係」だったかもしれませんが。
そして、母の結婚にまつわる話は、私が成人してからも、事あるごとに想い出として何度も繰り返し語られることになったのです。
肥しを得て土壌ができた
前回の「ナチュラルネグレクト」に続き、暗い話になってしまいました。
一部ではありますが、これが私の性格形成に影響した「環境」です。
もともとの「気質」のほうでは、好奇心、明るさ、社交的、といった面も大分ありましたし、自立心が強かったように思います。
しかし、この幼少期の環境は、私のカウンセラーとしての土壌を作った気がします。
まずは、黙って「聴く」。
母に憑依しているような感覚で聴いていたので、相手の体験を追体験するような感覚で聴くことが身についている。
道徳観念とは別に、その人の立場に沿って気持ちに共感できる。
人間関係について、「何故」という疑問が湧き、「どうしたら」という思考回路ができる。
このような「技術」が後々、カウンセラーとして活かされている、といったところでしょうか。
成人後はまた違った形で、カウンセラーへの道を辿ることになります。
次回からは、次の段階のお話をしていこうと思います。
余談ですが、「環境」はもう一つの側面を私に与えました。
不安定な子どもだったろうと思います。
学校では、成績が良く、運動もそこそこでき、音楽や絵などの科目も得意で、優等生の部類でした。
同時にいつも先生の話を一言ももらすまい、とする神経質さがありました。
通知表には「何かを抑えているように感じます」と低学年の頃から書かれていました。
そしていつも、お腹を壊さないか、トイレに行きたくならないか、と心配ばかりしていました。
大人になって、メンタル面が弱った時に、「不安」が前面に出てきやすいのは、この頃の影響も少なからずあると思っています。
そして、その経験がまた、「カウンセリング」を受けに来る方々との相性に大きく関わっていくわけです。
こんなふうにして、カウンセラーとしての基盤が私という人間の中にできていったのではないか、と予想するのですが、心の世界は見えないとはいえ、あながち外れているわけではないように感じています。
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