むーちゃん
「むーちゃん!」
スーパーマーケットの入り口で、いきなり背後から肩を叩かれた。振り向くと、白髪頭の小柄な老婆が立っていて、私と目が合うと、しわくちゃの笑顔になった。
「やっぱりむーちゃんだ! 心配してたのよ、いきなりいなくなるんだもの」
私はこの老婆をまったく知らない。“人違いです”と告げる間もなく、老婆は自動販売機の前まで走っていき、2本の缶コーヒーを両手に持って戻ってきた。
「少しくらい、時間あるんでしょ?」
1本を私に差し出して、私たちは人の出入りにジャマにならないところに移動した。私の肩くらいの背丈の貧相な老婆がコーヒーをすするのを見ながら、この人は頭がおかしいのかもしれないと思った。だとしたら、変に否定したら面倒なことになるだろう。
「もう7年になるかね。並んで流れ作業をしてさ。休憩時間にはこうして二人でお茶してさ。楽しかったね。あの工場、むーちゃんがいなくなってからすぐつぶれちゃったけどね」
私は無言でうつむいていた。
「あの頃、あんた悩んでたよね。しつこい昔の男から逃れたいって。でもさ」
老婆はニコニコしながら私を見た。
「血色いいじゃない。幸せなんだね」
私は薄幸そうな、私と瓜二つらしい“むーちゃん”の人生に想いを馳せた。何故か胸がきゅんとした。
「余計な詮索はしないよ」
老婆は缶コーヒーを飲み干した。
「さてもう行くよ。元気でね」
さばさばとした口調で言うと、手を振りながら去っていった。残された私は、ふと手に握り締めたままの缶コーヒーのぬくもりを感じる。
私は幸福な主婦だ。今は亡き優しい両親に甘やかされて育ち、相思相愛の彼と結婚した。
そうそう、夕飯のための買い物に来たんだっけ。再び店内に入ろうとすると、また背後から肩を叩かれた。振り向いたら、夫が息をきらせて立っていた。
「何度呼ばせるんだ。また名前を忘れたのか」
ぼおっと夫の顔を見つめていると、夫は私の首に手を伸ばしてきた。
「また記憶回路がおかしくなってる」
うなじにあるコントローラーが左右に回され調整された。私の脳がくるくる回転する。7年前、私は研究者である夫に保護された。名前の他は失われていた記憶は、夫によって作り出された。
「はい、君は誰?」
夫が私の顔を覗き込む。私の口から、抑揚のない声が流れ出た。
「ワタシハ アナタノ ツマ ムツミ」
了
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