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「学び」は誰のため?

確かに日本の教育水準はかなり高い。国際学力調査(PISA)でも毎回上位にランクインしているとニュースで聞く。毎年新しい教科書が配られる国も、あまり聞いたことがない。教科書の持ち帰りが禁止されている国もあるそうだ。

一方で教科書や指導要領から外れたことを「学び」と認められにくいのはなぜだろう。日本の学校では、「学校の勉強ができる=しっかり学んでいる優秀な生徒」という1つの図式しか存在しないように思える。

学びは教室で黒板に向かっている時だけ行われるもの?

Most Likely To Succeed という映画によると、教師が前で教え、生徒が座って聞く典型的な授業スタイルは150年も前から続くそうだ。もし一般のお店なら、もはや守り抜いた老舗の技と呼ばれるだろう。

自分が知りたい、理解したい、と自発的に調べたり、試行錯誤して身につけたりする過程が学びであって、計算ができるようになることや、年号を覚えることは、学ぶことのごくごく一部にすぎない。

その狭い領域を子供たちへ同じように指導して、テストを受けさせて偏差値や順位で優劣をつけることは、学びの本質ではない。

それは、学校・塾・親が分かりやすい成果を得るための手段である、と思う。

学校が苦しい、と感じる方が健全

「○○中学校に合格しないとぼくはもうおしまいだ……」とノイローゼになった娘のクラスメイトを知っている。本当に心が痛んだ。いつか学びの本質を取り戻してくれることを願う。

娘はクラスメイトの心が壊れていく雰囲気に耐えられず、6年生はほとんど登校できなかった。だけれども、今はITのおかげで、家にいても一流講師の授業が動画で受けられる。積極的不登校の道を選んだが勉強は全く問題なく、むしろ好きな科目は中学生の授業を受けていた。

ぎすぎすした環境から逃げ、家でのびのびと過ごすようになったからか、文字通り身長がどんどん伸びたのには驚いた。子供は思った以上にストレスを受けているのだと気づいた。

scense of wonder のレイチェル・カーソンをいつも心に、子供自身が持つ「知りたい」好奇心を大切に育んでいきたい。学びは本人が種をまき、育て、収穫するものだから。

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