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日本版「17世紀の危機」について考えてみる

「17世紀の危機」についての記事を書きながら思ったのは、日本のことです。気候変動は全世界を襲うものである以上、当時の日本はどうだったんだろう、と思いました。



思い当たるのは寛永の大飢饉と、その最中の1637年から翌年にかけて起きた島原・天草一揆、いわゆる島原の乱です。

1.寛永の大飢饉

日本版「17世紀の危機」の一面として指摘できるのが、寛永の大飢饉です。2020年3月、「ブラタモリ」で天草を取り上げたのですが、その時使用していた年表にも、「1634 凶作が続き飢きんが起きる」という記述がありました。

寛永10年代(1633~43)、日本を大飢饉が襲います。島原・天草一揆は、まさにその真っただ中に起きることになります。幕府も何もしなかったわけではなく、1635年から毎年、各地に巡見使を派遣し、農村を視察させています。特に1642年は天候不順も重なり、ひどい飢饉に見舞われたため、1643年には田畑永代売買禁止令が発布されました。


2.島原・天草一揆とは

私自身もそうですが、ある年齢以上の方は、「島原の乱」として習ったかと思います。その名称だと、キリシタンたちが幕府の禁教政策に反発して、乱を起こした、という解釈です。

現在では、過酷な年貢徴収に対する農民一揆の性格の方が強かったと言われます。だから島原・天草一揆という風に名称が変わったわけですね。

島原市は1637年、島原半島と天草島(上島と下島からなります)の農民が、有馬・小西氏の牢人と結んで反乱を起こしました。当時は寛永の大飢饉の最中でしたが、島原城主の松倉氏、天草領主の寺沢氏共に、過酷な年貢の徴収を行いました。それに耐えきれず、やむにやまれぬ思いで起こした一揆だったわけです。

なお農民たちの中にはキリシタンが多くおり、幕府の禁教政策に不満を持っていたというのも、もちろんあります。

首領はいわずとしれた天草四郎時貞、小西行長の家臣である益田好次の子といわれ、益田四郎とも言います。美少年で、海の上を歩いたとされますが、それはイエスの奇跡と同じですね。


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<天草四郎像>(2015.10)


一揆軍が立てこもった原城は、難攻不落の城でした。幕府はまず板倉重昌を派遣しますが、彼は戦死します。オランダ船の艦砲射撃を受けても、原城は落ちません。結局は幕府が板倉重昌救援のために派遣した松平信綱のもと兵糧攻めが行われ、1638年に原城は陥落しました。飲み水には事欠かなかったようですが、食料がなければどうにもなりません。一揆軍総勢37,000名は女性・老人・子どもを含め、皆殺しにされました。


3.天草の潜伏キリシタン


その後、生き残ったキリシタンは潜伏することになります。2020年3月放映の「ブラタモリ」では、先祖代々潜伏キリシタンだったことを長年知らなかった男性が出てきましたが、「知っていて知らないふり」も行われたようです。それこそ番組内で取り上げられた崎津集落の崎津諏訪神社では、潜伏キリシタンたちのミサが行われ、その歌声を他の住民は聞いていないことにしていたと聞きました。


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<崎津諏訪神社前の説明看板>(2015.10)


崎津諏訪神社の鳥居と崎津教会の塔が見えるこの光景には、グッとくるものがありました。


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<崎津諏訪神社の鳥居と崎津教会の塔>(2015.10)


なお崎津集落のマンホール蓋については、私のメインブログの記事をご覧ください。




4.オランダ船

ちなみに先ほど、「オランダ船の艦砲射撃を受けても、原城は落ちません」とさらっと書きましたが、2つの意味で異常なことだと思います。

①幕府は国内の反乱を鎮めるのに、外国勢力の手を借りた。

②キリスト教国のオランダが、日本のキリシタンを攻撃した。

①については、幕府は本当に危険なことをしたと思います。もしオランダ船のおかげで原城が落城していたら、その成果を手掛かりに、オランダによる日本の植民地化が進んだ可能性もあります。日本全体とは言わずとも、島原・天草あたりにオランダの居留地が作られていたかもしれない。オランダが、長崎の出島での貿易で満足してくれて幸いでした。

②については、実は同じ「キリスト教」と解釈するから異常に感じるのであり、オランダはプロテスタント(カルヴァン派)、キリシタンはカトリックであることを考えれば、説明がつきます。当時ヨーロッパは、1618年に勃発した三十年戦争の最中にあり、まさにプロテスタントとカトリックで血みどろの争いをしていました。

キリスト教の信者ではないものにしてみれば、「同じキリスト教」と思ってしまいますが、当時のヨーロッパ人にしてみれば、互いに別の宗教という感覚に近かったのかもしれません。あるいは根っこが同じだからこその、同類嫌悪というべきか。神社でのミサを見て見ぬふりができた、かつての崎津集落の人たちの寛容さを見習ってほしいものです。

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