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北マケドニアのNATO加盟を通して、マケドニアについて考えてみる

2020年3月27日に北マケドニアがNATOに加盟して、もうじき1年になります。これをきっかけに、マケドニアについて考えてみます。


1.北マケドニアとは

北マケドニア20200519

<北マケドニアの位置>


北マケドニアは、ギリシャの北、バルカン半島にある内陸国です。以前ご紹介したアルバニアの東にある国です。



北マケドニアという国を知らなくても、マケドニアという国名に、うっすら聞き覚えがある方も少なくないかと思います。この国はもともと「マケドニア共和国」でしたが、2019年2月に、憲法上正式に「北マケドニア共和国」に変更されました。なぜ「北」が付いたかは、後で述べます。


2.古代のマケドニア

マケドニアの名に聞き覚えがあるとすれば、アレクサンドロス(アレキサンダー)大王の国としてではないでしょうか。ギリシャ人の一派である古代のマケドニア人は、他のギリシャ人と異なりポリス(都市国家)を作らず、王政を保ちました。


そのマケドニアが台頭したのは、アテネやスパルタ、テーベといった他のポリスが衰えた後のことです。紀元前338年、フィリッポス2世率いるマケドニア軍は、カイロネイアの戦いでアテネとテーベの連合軍を破りました。

翌年、フィリッポス2世はスパルタ以外のギリシャのポリスにコリント同盟(ヘラス同盟)を結成させ、支配しました。スパルタは当時かなり衰えていましたが、伝統的な鎖国主義が復活し、同盟に加わらずに抵抗を続けたのです。何せ「スパルタ式教育」で市民が兵士として鍛えられていますから、結構手ごわかったのですね。

ギリシャをまとめたフィリッポス2世は、ギリシャの宿敵アケメネス朝ペルシャへの遠征の準備を進めていましたが、紀元前336年に暗殺されてしまいます。その後を継いだのが、フィリッポス2世の子であるアレクサンドロス大王です。


紀元前334年、アレクサンドロス大王はマケドニアと諸ポリスの連合軍を率いて、ペルシャ遠征(東方遠征)に出発します。紀元前333年のイッソスの戦い、紀元前331年のアルベラの戦いを経て、アケメネス朝ペルシャを滅ぼした後、アレクサンドロス大王はそのまま東方への遠征を続けました。

インダス川の西岸まで進出し(一部の軍勢はインダス川を越えたとも言われる)、広大な帝国を建設したアレクサンドロス大王ですが、その後西に引き返します。アレクサンドロス大王はまだまだ遠征を続けたかったようですが、平たく言えば部下や兵士がホームシックにかかって、そのまま遠征を続けたら、反乱が起きかねなかったわけです。もし遠征を続けていたら、どうなっていたんでしょうね。


アレクサンドロス大王の最大の功績は、ギリシャ文化とオリエント文化が融合したヘレニズム文化の形成です。遠征中に各地に作った「アレクサンドリア」がその拠点となりました。「アレクサンドリア」といえばエジプトのナイル河口のものが一番有名ですが、およそ70のアレクサンドリアが作られました。

アレクサンドロス大王は紀元前323年、熱病で急死します。マラリアだったとも言われます。享年33歳。息子もいましたが、まだ幼く、かつ遺言は「最強の者が帝国を継承せよ」というものだったため、後継者争いのディアドコイ戦争が勃発します。ディアドコイは「後継者」という意味。

アレクサンドロス大王の半生を描いた映画に、オリバー・ストーン監督の「アレキサンダー」があります。



3.アンティゴノス朝マケドニア

結局誰か一人がすべてを支配することは出来ず、帝国はプトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアの3つに分裂します。アンティゴノス朝は一応ギリシャを勢力範囲としましたが、アテネなどの個々のポリスを支配することは出来なかったので、実際に支配が及んだのは、フィリッポス2世時代の領土が中心でしょうね。紀元前168年、アンティゴノス朝マケドニアはローマに滅ぼされ、その支配下に入ります。


4.南スラヴ人の流入

7世紀になると、マケドニアの地にスラヴ人の一派の南スラヴ人が定住するようになり、今のマケドニア人が形成されます。かつてのギリシャ系のマケドニア人ではなく、スラヴ系のマケドニア人です。彼らは東方正教を受け入れました。現在では国民の7割がマケドニア正教の信者です(東方正教会は、ギリシャ正教、ロシア正教など、ほぼ国別に分かれます)。

15世紀以降はオスマン帝国の支配下に置かれたため、現在国民の3割がムスリム(イスラーム教徒)です。


5.第1次世界大戦前夜のマケドニア

1912年、ロシアの指導の下、セルビア、ブルガリア、モンテネグロ、ギリシャがバルカン同盟を結成しました。そのバルカン同盟が、主に現在の北マケドニアにあたる部分の領土を得ることを目的として、オスマン帝国に宣戦し、第1次バルカン戦争が勃発しました。「瀕死の病人」と呼ばれていたオスマン帝国は、その前年からのイタリア=トルコ戦争を戦っている最中で、そこを狙われたわけです。「瀕死の病人」に対し、むごいしうちな気がしますね。

当然オスマン帝国は敗北し(イタリア=トルコ戦争にも負けました)、1913年のロンドン条約で、バルカン半島側の領土を大部分失いました。しかし今度は獲得した領土の配分をめぐり、バルカン同盟内で対立が起きます。セルビア、ブルガリア、ギリシャで分けたものの、ブルガリアの取り分が大きくなりすぎたんですね。


結局1913年、第2次バルカン戦争が勃発します。ブルガリア1国に対し、セルビア、ギリシャ、モンテネグロ、ルーマニア、オスマン帝国が連合するという戦争。これまた当然ブルガリアが負けまして、同年のブカレスト講和条約の結果、マケドニアの大半はセルビアとギリシャで分け、一部をブルガリアが領有することになります。ちなみにこのブカレスト講和条約で、アルバニアの独立が国際的に正式に承認されました。


ところで謎なのは、モンテネグロ。私が調べた限り、ロンドン条約でもブカレスト講和条約でも、特に何かを得ているわけではないんですよね。もともとセルビアの一部だったので、セルビア寄りの立場を取るのは分かりますが、何の利益もないのに参戦するとは、お人好しな気がします。

はっきりとした理由は不明ですが、あえて言うならば、モンテネグロとセルビアの親和性と思われます。後のユーゴスラヴィア解体に際しても、最後までセルビアと共に連邦にとどまったのはモンテネグロでしたし、セルビア語とモンテネグロ語の差も小さいそうなので。


6.ユーゴスラヴィア

1918年、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人がセルブ=クロアート=スロヴェーン王国を設立します。上記の経緯の下、マケドニアは当時、セルビアの一部でした。この長い名前の王国が、1929年にユーゴスラヴィア王国と名前を変えます。ユーゴスラヴィアとは「南スラヴ人の土地」を意味し、マケドニア人だけではなく、セルビア人もクロアチア人もスロヴェニア人もモンテネグロ人も、南スラヴ人です。

1941年、ユーゴスラヴィアはナチス=ドイツの侵攻を受け、占領されます。しかしティトー率いるパルチザン(共産党系の抵抗組織)は徹底抗戦し、ほぼ独力でドイツからの解放を実現しました。結果、ソ連軍によって解放された他の東欧諸国と違い、戦後もソ連とは一定の距離を置くことになります。


戦後、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国として独立したユーゴですが、1963年にユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国と名を変えます。首相から大統領、そして終身大統領となったティトーが1980年に死去した後は、ユーゴを構成する各共和国・自治州の大統領らによる集団指導体制がとられました。

1989年の東欧各国の民主化の流れを受け、1990年に複数政党制のもとでの自由選挙が行われます。しかし1991年のスロヴェニアとクロアチアの独立宣言をきっかけに、旧ユーゴ紛争(ユーゴスラヴィア内戦)が勃発し、マケドニアも同年独立宣言を出します。


クロアチアのように激しい内戦に発展したケースもありますが、マケドニアの場合、割とスムースに独立が認められます。ユーゴ内戦は基本的に、独立の動きをセルビア人を主体とする連邦軍が阻止したり、各共和国内のセルビア人が独立に反対したりすることで泥沼化したのですが、マケドニアの場合、セルビア人が人口の2%未満しかいなかったことが幸いした模様。マケドニア内の連邦軍の兵器を、すべてセルビアが持ち去ることを条件に、連邦軍の撤退が実現します。


7.北マケドニアへの変更

独立後、マケドニアはNATO(北大西洋条約機構)やEU(ヨーロッパ連合) への加盟を望んだものの、それに難色を示したのがギリシャです。ギリシャはマケドニアの独立後、一貫してマケドニアという国名の変更を求めてきました。

ギリシャの言い分としては、「アレクサンドロス大王、つまりギリシャ人に由来する国名を南スラヴ人が名乗るな」というわけですね。でも現マケドニア人にしてみれば、もう1300年以上にわたり自分たちが住んできた土地の名前を国名にして、何が悪い」と思うわけで、両者の主張はかみ合いません。


で、ようやく折り合いがついたのが2018年で、2019年2月に正式に国名が「北マケドニア共和国」となったわけです。結果、昨年のマケドニアのNATO加盟、そしてEU加盟交渉開始の基本合意に至りました。

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