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「旅するイタリア語」を手掛かりに、シチリア島について考えてみる

1.「旅するイタリア語」について

NHKのEテレでやっている「旅するイタリア語」を含め「旅する」シリーズが、2020年9月をもっていったん終わります。

文字通り旅を通じて言語を学ぶというスタイルが、ありがちなスタジオ収録のものよりはるかに面白く、イタリア語だけでなく、ドイツ語とスペイン語でもお世話になってきました。

……あ、シリーズの中で唯一フランス語だけ抜けていますが、私、フランス語のシュワシュワポワポワした響きが、ちょっと苦手なのです(^-^; 綴りと発音がかけ離れているところも。単に、週に1回の放送とはいえ、そう何本も観られないというのもありますが。

語学の勉強というより旅番組として、楽しく観てきたこのシリーズですが、2019年後期と2020年前期(再放送)で「旅するイタリア語」の旅の舞台だったシチリア島は、なかなか興味深い土地なので、今日はシチリア島についてまとめてみます。


2.シチリア島とは

シチリア島は、イタリアの島の1つです。長靴のような形をしたイタリア半島の、つま先の先にある、三角形の島です。

シチリア島20200519



3.古代のシチリア島

紀元前8世紀以前まではシチリアの語源となった民族系統不明のシクリ人をはじめ、いくつかの先住民族がいました。そこに紀元前8世紀以降、主に東側にはギリシャ人、西側にはフェニキア人が入植していきます。高校の世界史的には、ギリシャの植民都市シラクサが有名です。ギリシャ人とフェニキア人は、シチリア島内で攻防を繰り返します。

その後、フェニキア人の都市国家の1つであるテュロス(ティルス)の植民市で、今のアフリカのチュニジアにあったカルタゴの勢力が及ぶようになりました。ちなみに植民市というのは、主に海上交易に携わっていたフェニキア人が、各地に築いた商業拠点のことです。

その頃すでに、ローマはイタリア半島統一を果たしていました。そのローマにとって、目と鼻の先にカルタゴの勢力が及んできたことは脅威です。イタリア本土とシチリア島の間にあるメッシーナ海峡は最短3キロメートルの幅しかないのですから、このままでは本土側にもカルタゴの勢力が及びかねません。ローマとしては、やられる前にやるしかない状態でした。

その結果が、紀元前264年から紀元前146年にかけて全3回で戦われたポエニ戦争です。ポエニというのは、ローマ人によるフェニキア人の呼び名です。紀元前264年から紀元前241年にかけての第1次ポエニ戦争はシチリア島が主戦場となり、勝利を収めたローマは戦後、シチリア島を属州としました。属州というのは、イタリア半島の外のローマの征服地のことで、シチリア島が最初の属州です。

紀元前218年から紀元前201年にかけての第2次ポエニ戦争では、ローマはカルタゴの将軍ハンニバルによる、37頭のゾウを率いての冬のアルプス越えで背後を突かれ、苦戦することになります。しかしハンニバル軍、ヒスパニア(今のイベリア半島)からガリア(今のフランス)を通ってのアルプス越え、そしてイタリア半島を縦断とは、すごい移動距離ですね。

ともあれ、ローマ軍の苦戦を見て、シチリア島内の諸都市はローマに反旗を翻します。ローマの支配はかなり過酷で、属州で生産された穀物や家畜のほぼすべてが、ローマに持っていかれてしまうレベルの収奪でした。だからこれを機に、ローマの支配下から脱しようとしたわけですね。

シラクサでは、「てこの原理」とか「アルキメデスの原理」で有名なアルキメデスが発明した兵器がローマ軍を苦しめますが、アルキメデスは図形問題を考えている最中に、ローマ兵に殺されたらしいです。

結局第3次ポエニ戦争で、カルタゴは滅亡します。ポエニ戦争がローマに与えた影響などを語りだすときりがありませんが、今日はシチリア島が主題なので、また別の機会ということで。

その後、395年にローマ帝国は東西分裂しますが、ゲルマン人の一派であるヴァンダル人が、440年にシチリア島を占領します。更にその後、同じくゲルマン人の一派である東ゴート人と東ローマ帝国の間で取ったり取られたりが繰り返され、最終的に6世紀半ばに東ローマ帝国領となります。7世紀には、短期間ながらシラクサが東ローマ帝国の都だったこともありました。


4.中世のシチリア島

9世紀初め、シチリア島はアラブ人によって征服され、その支配下に入ります。その後11世紀末、今度はノルマン人(いわゆるヴァイキング)によって征服されました。ノルマン人もまたゲルマン人の一派で、主に北ヨーロッパを勢力範囲としましたが、10世紀初めにロロが北フランスにノルマンディー公国を築いており、そのノルマンディー公国の出身者が南イタリアを支配下に置いた一環で、シチリア島も征服したわけです。

1130年、シチリア王国とナポリ王国を合わせ、両シチリア王国が築かれます。なお正式に「両シチリア王国」の名を使う時期は15世紀半ばと19世紀の2つの時期ですが、慣習的には1130年から1860年まで両シチリア王国があり、時期によってはシチリア王国とナポリ王国に分かれていた、とします。

両シチリア王国の初代国王ルッジェーロ2世の宮廷には、カトリックを信仰するラテン人とノルマン人、ギリシャ正教を信仰するギリシャ人、イスラーム教を信仰するアラブ人が仕え、すべての文化が入り混じることになります。

その後12世紀末、シチリア島はホーエンシュタウフェン朝(シュタウフェン朝)の神聖ローマ帝国の支配下に入ります。母からノルマン王家の血を引いていたことでシチリア王となったフェデリコ2世はパレルモ育ちで、9ヶ国語を話し、アラブ人やイスラーム教徒への偏見がありませんでした。そのため神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世として即位した後、第5回十字軍に参加した彼は、その頃イェルサレムを管理下に置いていたアイユーブ朝のスルタンであるアル・カーミルにアラビア語で手紙を書き、イェルサレムでのキリスト教徒とムスリム(イスラーム教徒)の共存を実現し、イェルサレム王となります。しかしフリードリヒ2世はムスリムとの交渉は悪魔との取引も同然とする教皇に破門され、アル・カーミルもまたイスラーム社会ではその成果を評価されませんでした。結局イェルサレムにおけるキリスト教徒とムスリムの共存は、10年間しか続かなかったのです。

その後13世紀半ば、シチリア島はフランスのアンジュ―拍によって征服され、シチリアの住民はフランス人の過酷な支配に苦しむことになります。それに対する反乱が1282年に起きたいわゆる「シチリアの晩鐘」で、結果両シチリア王国はシチリア王国とナポリ王国に分裂します。分裂後、シチリア島は「シチリアの晩鐘」に介入したアラゴン王国(後のスペイン王国の一部)の支配下に入りました。


5.近代のシチリア島

王家の変遷を経て、次に高校レベルの世界史でシチリア島の名が登場するのは、19世紀半ばのイタリア統一戦争の時です。1860年、「青年イタリア」のガリバルディに率いられた赤シャツ隊(千人隊)はシチリア島、ついでナポリを占領し、占領地をサルデーニャ国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に献上します。翌年、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は初代イタリア国王として即位しました。

イタリア統一後、工業が盛んな北部は発展したものの、シチリア島を含め南部はその発展から取り残されました。いわゆる南部問題です。南部の住民の中には北部に出稼ぎに行ったり、国外に移民として出てしまうものが少なからず出ました。シチリア島には組織犯罪集団、いわゆるマフィアが形成され、その一部はアメリカに渡りました。


6.20世紀のシチリア島

1922年、ムッソリーニ率いるファシスト党がイタリアの政権を獲得すると、当然シチリア島もその支配下に置かれます。第2次世界大戦中の1943年、連合軍のシチリア島上陸によりシチリア島は解放され、ムッソリーニは失脚します。

1992年、マフィアに反対する2人の治安判事が相次いで暗殺されました。マフィアに対し一歩も引かなかった彼らの業績をたたえるため、パレルモ国際空港の正式名称はファルコーネ・ボルセリーノ空港と改められます。


7.おわりに

上記のような歴史的経緯を経てきたシチリア島は、住民にも建物にも料理にも、ラテン、ノルマン、アラブなど各文化の影響が伺えます。「旅するイタリア語」の映像を通し、それを垣間見ることができ、とても興味深かったです。見出し画像に使わせていただいているのは、パレルモのモンレアーレ大聖堂のモザイク画ですが、ビザンティン(東ローマ)様式の影響が伺えます。

こんな感じで、数シーズンにわたってお世話になってきた「旅する」シリーズですが、この新型コロナウィルスが猛威を振るっているご時勢では、海外ロケは夢のまた夢で、この番組も中断せざるを得ないようです。2020年10月からは、「旅するためのゴガク」となります。コンセプトは番組広報資料によれば、

いつか旅する日のために、旅行先で役立つ言語の習得を目指すシリーズとし
てお届けします。

とのことです。

とりあえず10月からも、観てみるつもりです。


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