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激辛レビューでごめんなさい~『かたづの!』(中島京子)~

*この記事は、2019年5月のブログの記事を再構成したものです。


↑kindle版


中島京子といえば、『小さいおうち』が代表作の1つかと思います。『小さいおうち』は実は原作を読んでおらず、映画を観ただけなので、本来は語ってはいけないのかもしれません。でもあまりに結末がひどく、後味が悪すぎたので、この人の本は読まないようにしようと思っていました。


ちなみに映画の「小さいおうち」をなぜ観たかというと、機内で友人が観て、「結末について語りたいから観て」と言われたからです。映画自体の後味は悪いわ、なぜこんなひどい映画を観させるんだろうと友人に不信感は持つわ、決して良いとは言えない思い出です。


なのになぜ『かたづの!』を読んだかというと、あらすじが面白そうだったからです。中島京子作品について、実際には読んですらいない『小さいおうち』だけで判断し、食わず嫌いをするのも良くないと思ったのもあります。で、読んでどうだったかというと……。


うん、やっぱり私はこの人の本は、今後もう読まないことにします。ファンの方には申し訳ありませんが、この人の本を読む時間に他の本を読んだほうが、お互い幸せだと思うので。

いったい何がダメだったかというと……。


1.なんで題名に感嘆符を入れる必要があったのか、分からない。

こんなどうでもいいことに引っかかるんだから、もはや向いていないのでしょう。


2.なぜ語り手がカモシカ?

いや、語り手がカモシカでも良いんです。斬新なアイデアで、むしろ評価できます。でも途中でそのカモシカが死に、額に生えていた角(片角、かたづの)が語り手になった時点で、もはやついていけなくなりました。

人間ではないカモシカの視点で物事を見ても良いけど、「偶蹄目特有の頑固さ」とか、カモシカ自身が言うのはどうでしょう? 偶蹄目というのは、人間が勝手に作った分類で、カモシカであるあなたには関係ないでしょ、と言いたくなりました。


3.口調に、そこはかとなく品のなさがにじみ出る。

片角は、尊敬してやまないヒロインの祢々を表現する時に、必ず「様」をつけます。でもそのくせ、丁寧な口調の端々に、隠しきれない品のなさがにじみ出ているのが、嫌でした。そしてそれは、祢々も同じ。あからさまに汚い言葉を使っているほうが、はるかにましです。


4.「~た。」の連続が耐えられない。

『かたづの!』に限った問題ではなく、世の中の多くの本に現在共通する問題ですが、同じ語尾を延々連続させるのは、やめてほしいです。過去のことを書くんだから、過去形の「~た。」を使って、何が悪いと思うのでしょうけど。

日本語には「歴史的現在」という用法があり、過去のことを現在形で書くことが可能なのですよ。もちろん多用すると変なことになりますが、過去形と現在形を取り混ぜれば、同じ語尾の連続は防げます。これは作家本人だけでなく、編集者の日本語力が落ちている証拠でしょうね。


5.視点の揺らぎ。

上記の通りカモシカ、途中からは片角が語るわけですが、ほんの数ヶ所、片角のことを客観視している部分があります。もちろんそれが何らかの効果を持つのであれば構いませんが、単に違和感を感じるだけでした。

違っていたら申し訳ありませんが、この話、最初は普通に客観的視点(いわゆる「神の視点」)で書かれていたのではないでしょうか。それをどこかの時点で片角の語りに変えたのに、数ヶ所だけ、客観的視点で書いていた時の部分が直しきれていない。そんな印象を持ちました。


激辛レビューとなってしまいましたが、1ケ所、心に残った部分がありました。

不幸や禍はいつだって、あなたを丸ごと呑みこんでしまおうとするのです。けれども、あなたを呑みこもうとする禍が降ってきたときには、ただただそれに身をゆだねてしまわずに、知恵を絞って考えてください。禍に呑み込まれずに抗おうという強い思いがあれば、必ず、向かうべき道が見えてくるものです。だいじなのは、あきらめないことです。

物語の終盤にこの言葉に出会ったことで、この小説を読んだ甲斐があったと思いました。


見出し画像には、カモシカの写真を使わせていただきました。


↑文庫版



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