見出し画像

今は敬して遠ざけたい~『旅のつばくろ』(沢木耕太郎)~

JR東日本の新幹線車内誌の「トランヴェール」に連載されたエッセイをまとめたものなので、必然的に旅の話がメインです。

↑単行本


冒頭5行目の、「現代では、たとえどんなに遠くであっても行って行かれないことはなくなってきた」という一節が、現状では皮肉ですね。すごく近くであっても、出かけること自体へのハードルが高くなってしまいましたから。


そういう意味で、本の中とはいえ旅の気分を味わえるのも悪くないと思い、読み始めました。実は私、沢木耕太郎の本は初めてです。『深夜特急』シリーズなどの存在は知っていましたが、何となく手に取る機会を逸してきました。

読んでみたところ、文章が滑らかだし、車内誌の連載エッセイということで軽く読めます。良い意味で印象に残らない文章だなぁと思いながら、読み進めました。


しかしだんだん、どうも受け付けなくなってきました。文章の端々に出てくる、沢木耕太郎の生き方というか考え方に違和感を感じるのです。

「兼六園までⅡ」で、駆け出しのライターだった沢木耕太郎が元華族の酒井美意子さんのインタビューをした時、彼女の笑い方に代表される「元華族」的な感じが苦手で、必要最低限のインタビューしかしなかった、という話が出てきますが、何となくそれに通じる苦手な感じを受けました。

もちろん沢木耕太郎の文章が、「元華族的」というような意味ではありません。沢木耕太郎の、頑ななまでに自由を求める感じ、具体的に言うと、先の約束はなるべく入れたくないから、講演などの依頼は基本的に断る、というような生き方が、どうも好きになれないのです。もちろん気持ちは分かるけれど、そういう生き方は、周りがちょっと迷惑だなと。


決定的だったのは、「今が、時だ」の冒頭でした。

旅人はいつでもこう思う。自分はこの地に来るのが遅すぎたのではないか。もう少し早く来ていれば、もっと素晴らしい旅があったのではないだろうか、と。


何ていうことのない一節だし、人によっては、印象的な気の利いた書き出しだと思うことでしょう。でも私は、「旅人」とひとくくりにしたこと、「いつでも」と例外を排除した書き方に、傲慢さを感じました。

そのため、この本をだらだら読むことが嫌になり、その後の約80ページは一気に読みました。一気に読むのは普通、面白いからですが、私はこの世界からさっさと離れたかったのです。もちろん読むのをやめるという手もありますが、何となくそれは負けのような気がして……。


ちなみに「今が、時だ」の最後には、「ようやく訪ねることができた今こそが自分にとって最も相応しい『時』だったのではないだろうか」という言葉が出てきます。つまり、冒頭の発言を思い直してはいるのですが、無理にそう思い込もうとしているところもあります。


とはいえもちろん、心に残る部分も少なからずありました。


どちらかと言えば、私は旅運のいい方だと思うが、それも、旅先で予期しないことが起きたとき、むしろ楽しむことができるからではないかという気もする。たぶん、「旅の長者」になるためには、「面白がる精神」が必要なのだ。

実際には各エッセイを読んでいると、沢木耕太郎は常に「面白がる精神」を発揮できるわけではなく、心惹かれるお寺であっても、拝観料が必要だと入ろうとしないなど、頑なな面もあります。

とはいえ旅先でしり込みしてしまうこともある私としては、心を開き、「面白がる精神」を持たなきゃなと、思わされました。そうすれば思いがけず素晴らしい紅葉を見られた沢木耕太郎のように、「偶然というものに柔らかく反応することのできた私への、旅の神様からのプレゼント」を頂けるかもしれません。


なお上記の酒井美意子さんについて、沢木耕太郎は後年、その素晴らしさを発見し、「もし私が水路をつなごうとしたら、酒井さんの胸のうちに満ちていた言葉の湖から、多くのものが流れてきたはずなのだ」と後悔することになります。私もいつか、例えば『深夜特急』のどれかを読んで、沢木耕太郎の魅力に気づくこともあるかもしれません。でもとりあえず今は、若き日の沢木耕太郎の酒井美意子さんへの態度同様、「敬して遠ざけ」ることにしておきます。


見出し画像には、兼六園の写真を使わせていただきました。


↑kindleの無料お試し版です


この記事が参加している募集

読書感想文

記事の内容が、お役に立てれば幸いです。頂いたサポートは、記事を書くための書籍の購入代や映画のチケット代などの軍資金として、ありがたく使わせていただきます。