今日も笑う
毎日、一度は口角をあげると、今日のノルマ達成と思えます。
顔の筋肉が固くなったのか、それとも笑いのツボが深くなったのか、そう簡単には笑わなくなりました。
まあ、笑うも泣くも、効果は似たようなものなので、笑えなかったら泣けばいいと思っています。
今日もまたひとつ笑ふて春炬燵
(けふもまた ひとつわろうて はるごたつ)
季語は「春炬燵」です。
暦の上では春になっても、まだまだ寒い日もあって、炬燵をそのままにしている人も多いでしょう。
我が家には炬燵もエアコンもありませんが、電気ストーブを置いています。
そんなに楽しいことがない1日でも、たった1つ、笑うことがあったら、何となく幸せなもんです。
老友の賀状の思ひあまたなり
(ろうゆうの がじょうのおもひ あまたなり)
季語は「賀状」です。
互いに老いた友達からの年賀状を見ながら、過ぎ去った一年だけでなく、若かりし頃まで振り返りました。
楽しくもあり、心が少し締め付けられるようでもありました。
春の雪落ちた飯食ふ父かなし
(はるのゆき おちためしくふ ちちかなし)
季語は「春の雪」です。
関係性が悪くなった時、父の認知症が一気に進んだことがありました。ふと、そんな日のことを思い出したので詠んでみました。
自分の親しい人が認知症になったり、老いることで優しくなったりと、自分が思っていた像とずれてくると悲しくなるもんです。
そしてその悲しいという感情を隠すように、怒りの感情がわいてきます。
誰もが初めて老いるんだし、誰もが試行錯誤しながら老いています。老い方にもその人の個性が表れます。
だから、お互いに初老い体験を楽しむ余裕があればいいのですが、それがなかなか~。
わたしは父が亡くなる少し前、やっとのこと楽しむ余裕が持てた気がします。身内のこととなると、何をやってもハードルが高いもんです。
祓うべき心の鬼もなく追儺
祖母呆けて追儺の鬼と戯れる
(はらうべき こころのおにもなく ついな) (そぼほけて ついなのおにと たわむれる)
季語は「追儺」です。「鬼やらひ」ともいいます。
年老いて惚けてくると、気性が荒くなる人もいれば、わたしの祖母のように「若いときは凄まじかったのに、可愛く惚けたわね」と、びっくりされるほど、あの邪気はどこにいったのと驚くほど、うまく惚ける人もいます。
呆ける前は、タクシーを自宅に呼んで、行きつけの美容院で、頭を真っ黒に染めていましたが、呆けるとその行動もなくなりました。
見事な白髪になった祖母は、減らず口を忘れたようで、いつもにこやか。デイサービスのスタッフにも可愛がられていました。
「花留さんちのお祖母さんみたいに、上手くボケたい」と聞かれても、わたしが知りたいもんです。
遠き姪たまの正月ポチはずむ
(とおきめい たまのしょうがつ ぽちはずむ)
季語は「正月」です。
先日のチコちゃんで知ったのですが、昔の花街で、ポチはお年玉のことだったそうです。
昭和30年頃になって、米からお金にお年玉が変わってきてポチ袋が出現したそうです。
弟夫婦も、甥も姪も遠く雪国に住んでおり、滅多に会いません。末っ子の姪に会ったのは2回でしょうか。生後1年、次が中学生ではギャップがありすぎで、別人でした。
今回のお年玉、現金ではなく、叔母の手作りバッグでした。米よりはましだろう。
ここで、俳句の上先輩より三段切れと助言がありました。そこで、少し変えてみました。
遠方に住む姪のポチ色をつけ
(えんぽうに すむめいのぽち いろをつけ)
季語がないですが、ポチからの「お年玉」を強引に季語に昇格です(笑)。
青き踏む姪に手業の革バッグ
(あおきふむ めいにてわざの かわばっく)
しかし、ポチに色をつけるという表現は如何なもんか、と俳句の先輩より。そこで、ポチから離れて作った句がこれです。
季語は「踏青」の関連季語の「青き踏む」。これでファイナルアンサーです。
どう見ても小学生レベルの絵です。いやいやそれでは小学生に失礼です。我が家のお蔵を描いたつもりですが、ハウルのお城みたいに歪んでいます。
夜な夜な歩きそうなお蔵となりました。