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もしも、わたしが校長先生になったら

少しばかりの夢や希望を抱いて、受験競争を勝ち抜いて入学。やっとの思いで入った学校なのに、そこで手にした『校則』の書かれた小さな手帳。

いろんなことを学んで、自律したい、自由を手にいれたいと思っていたのに、最初に渡されたものが、自分をみんなと一緒という枠に押し込み、監視するための規則なんて、大人たちのやることは想像力が無さすぎる。

そんなことを思いながら、胸ポケットに自己監視機能を持つ『校則』を突っ込んで12年を過ごした。

本当はそんな『校則』の書かれた手帳なんて持っていたくないけれど、先生の気紛れか、急に「読んでみろ」なんて言うので、持っていないとネチネチが長引いた。

だから、くだらない『校則』と一心同体で、学生時代を過ごしてきた。

学生が終わると、くだらない『校則』もなくなった。代わりといっては変だが、社会人としての倫理規定や法律、自分が自分に課した道徳心や倫理観が、見えないけれど、いつも胸の中にある。

そんな自分が自分のために作った道徳心とか倫理観って、与えられた『校則』に猛反発をしてみたり、世間に憤ってみたり、自分が    自分らしく生きるために大切にしたい信念や価値観って、「なに?」と試行錯誤する中で見つけ出したものだ。

もしかしたら、わたしは学校から与えられた『校則』の手帳とは別に、もう一つ、自分の手帳を持っていたのかもしれない。

まだ、何も書かれていない真っ白な手帳。

でも、何も書かれていないから自由に、好き勝手に振る舞っていい、好きに生きていいという訳ではない。

気づかないうちに、わたしはわたしの手帳にチマチマと小さな文字で、myルールやら社会一般に通じる「常識」や「しきたり」、自分自身を生きやすくするために獲得した世間の当たり前という「法則」を書き込んでいた。

もちろん、世間の当たり前なんて流動的で、場所や時代が変われば書き換えられる。

だから、わたしの手帳は古びては書き直し。それでも足りなくて、何冊、書いたことか。

ずっと一冊の手帳を持ち続ける、自分の「核」となる信念を貫き通す人だっている。でも、わたしは、予期せぬ人生のドタバタに遭遇するたびに、新しい手帳を新調した。

だって、病気したり事故したり、ちょっくら世間から脱線したときには、それまで通りの「常識」や「しきたり」では生きづらい。

そんなときは、古くなった「常識」や「しきたり」は潔く捨てるに限る。

もちろん、人間社会で生きるための倫理観や道徳心みたいな、変わらない自分の「核」、変わらない自分の「根っこ」は持ち続ける。

・・・・・

もしも、わたしが校長先生になったら、どうするだろう。

自分が校長として、人生の先輩として、若い彼らに伝えたい「理念(想い)」が書かれた、    真っ白な手帳を渡すだろう。

「さあ、好きに書いてみて、                            あなたの未来を創る、あなたのmyルールを」


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