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初昔
世間は三連休です。
わたしはどこで勘違いをしたのか、日付けを1日間違っていて、てっきり、昨日が9日と思っていました。
夜勤して、昼前に帰ってきて、家でゴロゴロして、ランチに行って、帰って、風呂して、ゴロゴロして、、、。1日で何日も過ごした気分です。
思えば、56歳なのに58歳と思い込んでいて、あと2年で定年退職のつもりが、4年もあってびっくりしたこともあります。
では、今日もよろしくお願いいたします。
初昔まことの孤独知る二年
(はつむかし まことのこどく しるにねん)
季語は「初昔」です。
「初昔」という季語を知ったのは、つい最近です。新年の季語ですが、年が改まり初めて過ぎた年を振り返ることをいいます。
つい昨日の、何気ない出来事も「昔」にしてしまう季語なんですね。
ずっと孤独だった気がする人生です。でも、両親がふたりとも居なくなった、この二年を振り返ると、なんだか、本当の孤独を知った気がしました。
人は誰もがいづれは死にますし、事故とか、想定外のことで死んだので無ければ、よしとしなくてはいけない世の中です。
それでも、人の死は悲しいし、残されるのは寂しいもんですね。
父のこゑ吾の声となり春を待つ
季語は「春隣」です。「春待つ」は関連季語です。
自分の声を聞くと、声の質や発声が父とよく似ていて、自分の声に父の思い出を重ねることがあります。
目白という鳥が好きだった父は、この時期になると、餌が少なくなった山から降りてくる目白を、庭で見るのが好きでした。
庭の木の枝に蜜柑をぶっ刺して、目白の鳴き声の真似をして、目白を誘き寄せようとする父が懐かしいです。
ここで俳句の先輩と熟考。やはり、他の人と熟考すると句が育ちます。
目白鳴く吾の声に聞く父のこゑ
春を待つ吾が声にある父のこゑ
吾が声に重なる父のこゑよ春
だんだんといい感じです。
夏兆す父のハンカチにアイロン
(なつきざす ちちのはんかちに あいろん)
季語は、「夏めく」の関連季語の「夏兆す」です。
冬なのに夏の句です。
あたりが夏らしくなって、草木の緑が輝きを増して、梅雨に入るまでの束の間の解放感が生まれる初夏が、夏めく頃です。
サラリーマンだった父のために、わたしは、ハンカチやワイシャツにアイロンかけをしていました。
最近、我が家から姿を消した家電がいくつかありますが、アイロンもその一つ。他には、テレビでしょうかね。見たい番組はスマホのワンセグです。
ワンセグで「Come Come エブリボディ」を見ていたら、ハンカチにピンとアイロンかけする場面がありました。
昔は、アイロンかけとか靴磨き、風呂洗い、風呂焚き、三和土の掃除、肩たたき、新聞や牛乳をとってくるなど、子どものお手伝いがたくさんありました。今の子どもは何をしているんだろう。
「くそったれ」恵方睨んで椿餅
(「くそったれ」えほうにらんで つばきもち)
季語は「椿餅」です。
椿という花には、ポトンと落ちるので不吉なイメージがあります。断首、首を落とすことにも繋がります。
ところが、源氏物語の若菜の巻には、蹴鞠の穢れを祓うため、椿餅を食する場面があるのです。
昔、訪れた公園には、実にたくさんの種類の椿の木があり、一重や二重、八重の花びらの椿は見ていて飽きませんでした。
ところで、「恵方巻き」を食べる風習と申しますか、習慣が定着して、最近はコンビニやスーパーで売っています。
バレンタインといい、どうも消費行動に乗せられている気もしますが、楽しいことはありでしょう。
「恵方」は「歳徳神」という神様がいる場所とされており、「その年の中でも特に縁起のいい方角」とされていますよ。ちなみに、2022年の恵方は「北北西」だそうです。
「恵方」は様々なことを行うのに向いているとも言われており、「くそったれ」と愚痴を吐いてしまったら、恵方巻きもいいけれど、穢れをお祓いしてくれる椿餅を食べて、身も心も浄めるとしよう。
魂棚の父母の写真のほこり拭く
(たまだなの ふぼのしゃしんの ほこりふく)
季語は「盆」の関連季語の「魂棚」です。
本来、これは秋の季語です。ただ、わたしは仏壇という言葉が妙に受け付けなくて、調べてみました。
すると、魂棚とは、先祖や新仏の霊を迎える祭壇のことで、民俗学者である柳田國男は、この魂棚が現在の仏壇のルーツであると説いています。
わたしと同様に無神論者で、仏壇という抹香臭い響きに抵抗感を示す人に、以前は魂棚と呼んでいましたよ、と仏壇メーカーが説明をしていました。素晴らしい。
なので、両親の写真と"おりん"だけが置かれている、簡易といいますか、お手製の仏壇、もとい魂棚がわたしの寝る枕元にあります。
そのため、今回は秋のみの盆棚ではなくて、オールシーズンのわたしの魂棚の句です。
以前は写真を見るのも嫌で、写真どころか、魂棚も何もありませんでした。それなのに、今では両親の写真に囲まれてわたしの写真もありますし、冬の長い夜には、両親の写真に話しかけることがあります。
本当なら、お互いが生きているうちに話せばよかったんだし、さもないと後悔することは分かりきっていました。
どちらかが死んでしまったら、もう「対話」することは叶いません。
一人二役ではないですが、自分と自分の中にいる父と母と話すしかありません。
たとえ相手をギッタギタにぶったぎる言葉であっても、やっぱり、ぶつけるべきだったと思います。
お互いに面と向かって対話することを避けてきたので、ボケとツッコミではないですが、攻撃する機会も、弁明する機会も持つことがなく、尻切れ蜻蛉の親子で終わってしまったことが悔やまれます。
帰省子に冷たき故郷のディスタンス
(きせいしに つめたきこきょうの ディスタンス)
季語は「帰省子」です。
せっかく帰省をしたのに、まさかの感染症で宿泊施設での残念な滞在。
感染経路を聞かないといけないと執拗に質問するスタッフ。どうしても帰省してきた人に冷たくなる。
わたしなら、故郷の人からのディスタンスが堪えるんですけれど、なかなか相手の立場になれないもんですね。
今のわたしの心の穢れをお祓いするために、紅白の椿餅が食べたいです。
そろそろ、水彩色鉛筆にも慣れてきました。真面目にデッサンというものをやりますか。
それにしても、どんなに下手でも平気で投稿する根性は、我ながら感心です。
ちなみに、この絵はわたしが好きなドラマの主人公でして、写真を見ながら描きました。駅の場面だと思いますが、彼女が座っているベンチの後ろの壁が悲惨です(笑)。
まあ、スタートは落下すれすれの方がグンと上がるというものでしょう。