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日本語教師でない人は日本語の伸びをどう捉えるか?

日本語学校で働いていたり、日本語教育セクションにたくさん人がいると、語彙や文法の量や正確さにもとづいて、日本語の能力の伸びを捉えているような、そうでもないような気がします。でも、日本語教師でない人は、日本語の伸びをどう考えているのでしょうか。

実は日本語教師でない人のほうが柔軟?

もう10年近く、ある学校で、補習でゆるく日本語を教えています。ただゆるすぎて、傍から見るとこれで大丈夫なのかなあと心配していました。

そこで、ある時依頼主の方に、今やっていること、その中で話していたことをお伝えしました。教科書は抵抗にあって進まない、けど自分の生い立ちや困っていること、悩んでいること、はなしてすっきりしたり、先輩からアドバイスをもらったり、そういう場として機能していることをできる限り丁寧に伝えました。
その時に、ふと、「確かに座学や教科書をこなしていなかったとしても、自分の言いたいことが言葉にできるようになることは、日本語が上達しているってことですよね。」といってくださいました。実を言うと私自身も迷いがあったので、このように認めてくださったことをとても心強くありがたく思ったものです。
 ふと博士課程の入試の後にも、私の修論は自分の実践をもとにしたものでしたが、日本語教育の先生よりも国語教育の先生の方が高く評価してくださったと聞いたことを思い出しました。なぜなら、学校教育の領域では、子どもの活動に参加する中で、対象世界や他者との関わりの変容こそが発達だと考えることが前提にあるからだと思います。

自分を振り返って考えてみると

自分が学習者の成長をどこで感じているのだろうと考えると、授業で教えた文型を使えるよりも前より気持ちが伝わる方が嬉しく思います。また、他の人の作文や発表を聞いて認め合って参考にし合って高め合っているのを見ると学んでいると感じています。
このことがあって、量とか正確さとかだけではなくて、人との関わりの中で成長できる環境づくりに徹したいと思うようになりました。

なんとなく文法を教えなきゃいけない、文法を教えたらより複雑で正確に日本語を産出できるようにできるようになるのでは、それができるようにしなければと思うちょっとした強迫観念みたいなのもまだあります。でも、一度教えてできるようになることなんて限られているのだから、長い目で見て頭に浮かんだことを言葉にするお手伝いをしていきたいと今のところは思っています。