I’m on your side, but not yourself
今年度も日本語教師養成講座に関わっています。
最近とても気になることとして、特に学校で支援をしている人たちが情報発信が進んでいる一方で、それがちょっと偏っているのではないかと危惧しています。
どんな発信が行われている?
SNSでこういうの見かけませんか?
学校はあれができていない、これができていない、こういう支援が足りてない、生徒が酷い目に遭っている。だから、私達が必要だ。なのに、学校はその必要性に気づいていない。これだから、日本の学校は閉鎖的で・・・
この背景にはすごく複雑な問題が絡んでいます。
・学校の支援体制が不十分(かもしれない)
・先生たちの理解も不十分(かもしれない)
・でも支援員の人たちの学校に対する理解も不十分(かもしれない)
・善意の人々の労力が認められていない(ような気がする)
・もともと日本の教育や学校に対して違和感や反感を持っている
など掘り進めていくと、問題が
・日本の教育制度全体の問題
・学校と支援員の関係
・支援員の方自身
の問題に分割できるように思います。
支援員は学校の何者?
そこで、ポイントになるのが、支援員は支援員、ボランティアはボランティアですから、その結果に責任を負えないし、負うべきでも負わせるべきでもない、その代わり、その成果が日の目を見ることもないということです。その点を忘れて、私がここまでやったのにどうして!みたいなことを言っても仕方ないのです。
それから、学校へ関わる人たちの理解が不十分というと対話!連携!という人もいますね。でも、誰も何も教えてくれないのは言う必要がないからです。普通の仕事だって関係のない人があれこれ聞いてきたら、なんで?ってなりますよね。
それから、新しいことをするのには、時間もかかります。被害を最小限にしつつも犠牲も出ます。でも、私が一つ確信しているのは、学校という組織は学ぶことができるということです。試行錯誤の連続ではありますが、少しずつでも良い方向に向かいます。
学校の支援員、日本語教師は唯一の理解者で、代弁者なのか?
それから、生徒が自分だけに打ち明けてくれた、こんなことはきっと学校の先生が気づいていない、そして、私は生徒の心に寄り添って、その声を代弁してあげなければ・・・!(そこまではいないか)
経験上、外部の人に言うくらいのことは、大体他の先生に言ってます。
経験上、本当に大事なことは担任の先生にしか言いません。
経験上、言いたくなかったけど、ボランティアの先生に、聞かれたから仕方なく言った、よくわかんなかったから適当に答えた。これもよくあります。
色んな角度から話を聴くのが大事なのはいうまでもありませんが、個人の思想、心情、あるいは興味関心で、いろいろなことを聞き出すというは、相手のテリトリーを侵襲している可能性があるわけです。
また、外国人の子どもたちがみんなアイデンティティクライシスを起こしているわけでも、成績が悪くて中退しそうなわけでも、ヤングケアラーなわけでも、日本語が全くわからなくて困っているわけでもなく、どちらかというと特定の1人に様々な問題が重なっていると考える方が妥当です。その意味では、大きい括りで支援を考えることで、不必要な支援の対象になる可能性も考慮すべきです。
まとめ
大事なことは、
何かを代わりに、あるいは親のように矢面に立って、やってあげることでしょうか?
それとも、自分が努力したのに報われない怒りややるせなさを学校批判につながることでしょうか?
自分でできるように一緒に歩むこと、あなたの代わりにはなれないけれど、味方であると伝え続けること。そして、それは関わる学校に対してもそうです。いきなり大きな態度で文句をいう人とは信頼関係が築けませんよね。
だから、地道な関わりしかないんじゃないかなあと思います。
それとは別に、どういう人が何の意図を持って発信しているか見極めも重要です。団体によっては、学校を批判することでその団体の存立意義があるような場合もあります。
もしそういう人たちが発信をしているのであれば、無自覚の悪意が潜んでいることに注意する必要があります。