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自然と共に流れる時間

大学3年の時、海外奉仕で西アフリカの「ベナン🇧🇯」という国に行った。
ちなみに、ベナンはたけし軍団のゾマホンや八村塁のお父さんの出身国でもある。

ベナンでは、奉仕活動は農作業の手伝いをしたり、近くの学校を回ってサッカーボールを配ったり、小さなサッカー大会を開催したりと、それなりに伸び伸びと活動させてもらった。

ただやることといえばそれくらいなので、
活動はだいたい午前か午後のどちらかで終わってしまい、案外暇な時間が多かった。

暇を持て余した時、
僕はよく宿泊していた家の二階にあがって時間を潰した。
二階とはいっても、作り途中で放置されていたので壁も屋根もない部屋なので、ほとんど外だ。
インテリアといえば、むき出しのコンクリートと大黒柱になったであろう裸の鉄の棒たちくらい。
僕はそんな二階に陣取って、360度広々とした風景を堪能しながらカンカン照りの日差しと透き通るような大空の下、読書をしたり、歌ったりするのが好きだった。もちろん帽子と水は必須である。
だんだんと本にも歌にも飽きてきたら、ボーッと空に浮かぶ雲をただ眺めた。
風が通り過ぎると近くの木々の葉っぱが擦り合う音が聞こえ、隣の家の塀の上には色あざやかなトカゲが走り去っていくのが見える。

じわりじわりと流れる汗を感じながら、僕はこの開放的な空間でよく寝落ちした。

―――

ベナンでの奉仕活動(約6ヶ月ほど)を終え、また大学生活に戻った時、なんとも言えぬ違和感を覚えたのを今でも覚えている。
もしかしたら、4年以上経った今でもその感覚を引きずっているように感じる。

日本での生活はとても《便利》だ。
温かいシャワーも出るし、しょっちゅう停電するわけでもない。
コンビニにいけば大体のものは変えるし、交通手段も多彩で時間のズレもそんなにない。
治安も良いほうだし、中古でも新品でもだいたいのものがいい状態で手に入る。
さらにいうなら、美容師との意思疎通が取れて坊主以外のヘアースタイルを選べるというのは、とても素晴らしいことだ。

しかし、それでもだ。

ベナンから帰国してからというもの、
こんな《便利》な日本での生活に、「違和感」を感じるようになってしまった。
別にそれを《悪い》といっているわけでもないし、言うつもりもない。
むしろ、僕はずっと日本に住んでいたい。
しかし、ベナンのあの二階で蓄積された《実感》が、日本での生活に困惑しているようなのだ。
その《実感》とは、「自然と共に流れる時間」の感覚だ。

ベナンでは一日がとても長く感じた。
そして太陽と大空、木々や風と共に時間が流れていた。
単純に僕が暇だったからかもしれないけれど、一日がゆっくりと満たされていくように感じた。

ところが日本に帰ってみると、一日が分単位でチクタクと忙しく動いていた。
朝からあれして、これして、急いで昼飯を食べたら、午後はそれやれこれやれ・・・「はっ」と気がつくと夜になっていて、ベッドに横になっている。
おお、なんて充実した日々なんだ。
何度も言うが、別にこういった生活が悪いといっているのではない。
ただ、明らかに一日が短く、時間がなにやら機械的に小刻みに分割され、こぼれ落ちていく細かい砂のようにとらえどころなく指の間からこぼれ落ちていくように感じられるのだ。

日本という国は「便利で住みやすい」と心から思う。
きっとこの先も、どんどん社会の不便やかゆいところに手を届かせる便利な技術やサービスがしのぎを削って出てくるだろうし、そんなイノベーションを期待している。
しかし一方で、これ以上の便利さのさらに先に自分の《住みたい世界》なり、《過ごしたい時間》があるのかはわからない。
僕にいたっては今のような便利さで成長が止まっても、それはそれでいいような気がするからだ。

公園のベンチに座って、整備された空間に埋め込まれた自然を眺める。
空を眺める。雲がゆっくりと流れている。
風がスーッと通り過ぎていく。
そう、日本でだって《自然と共に流れる時間》を感じられるのだ。

「ブブブブブ」

スマートフォンのアラームが休憩時間の終了を告げる。
また作業の続きに取り掛かりに、研究室に戻る。
休憩の間、自然を眺めに外に出てリフレッシュできた。これでこの後の作業の生産性が上がる。
ほら、時計の針に合わせて区切られた時間の先にだって、ちゃんと充実感がある。

それでも時々、
ベナンのあの二階で過ごしたあの時間が恋しくなる。
自然と共に流れる時の流れに揺られ、ゆっくりと日向ぼっこする、
そんな充実感を忘れてはいけないように思うのだ。

《未来の街》で妻や子供たちと過ごす空間は、
そんな時間で溢れていてほしい。

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