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諦めること、自由になること。『ライティングの哲学』感想

将来、書斎を持つのが夢だ。

正方形の広い部屋、壁一面の本棚にありったけの蔵書を敷き詰めて、真ん中にマホガニー製の立派な机を置いて、海外ドラマに出てくる小説家よろしく重めの原稿と格闘している自分。
机上には愛用の万年筆、手のひらでクルミを2つ転がしながら頬杖をついていると、飼い猫が作業の邪魔をしにやってくる......
そんな妄想を、月に一回はする。

書斎のある生活に憧れているわりには、普段文章を書く際の作業環境、執筆環境について一切注意を向けてこなかった。
『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論』を読んで、初めてそれが「ものを書く」という行為にとって、ほとんど本質といえるくらい重要なのだという気づきを得られた。

有名なあの人も「書けない」と悩んでいる

本書は、それぞれ異なるバックグラウンドを持つ4人の執筆者が、おのおの「書けない苦しみ」を赤裸々に吐露しながら、どうすれば書けるようになるのか、いや「ものを書く行為に付随する苦しみを、どのようにして緩和できるか」を模索していく、対談形式の書籍である。

座談会を行うのは、研究者として哲学をベースに広く文化論まわりに取り組まれている千葉雅也さん、同じく研究者として美学・美術理論の探求を行いながら庭師としても活動している山内朋樹さん、『独学大全』の筆者であり20年以上インターネットを主戦場に書評活動を続けている読書猿さん、編集者として活動する傍ら地域活性化の事業を積極的に行う瀬下翔太さんの4名。

3年の間隔をあけて行われた2度の座談会を挟むようにして、参加者4人が「書くこと」についての自身の変化を記した文章が収録されている、というのが本書の構成である。


まず読んでみての感想として、対談されている方々、皆メチャクチャ頭がいい(笑)。

エゲツない知識量をさりげなく披露しながら、具体と抽象のレイヤーをものすごいスピードで行ったり来たりしている。
繰り広げられているのは間違いなく頭の良い人たちによる高度な会話なのだけれど、なんとこれがビックリするほど読みやすい。
もともと対談形式ということもあるが、あっちこっちへ展開している議論の内容を1冊の本に整えた星海社編集部、マジですごいです。

バーチャル空間に、書斎を作る

本書がつくられるきっかけとなった座談会は、もともとアウトライナーを用いた執筆方法について意見交換をしたいというところから始まった。
そのため、座談会もはじめは各種ツールの活用法というか、おのおのがどんなふうに文章の構成を立てて、原稿をつくろうとしているのかについて語っている。

僕の場合、情報整理はノートやコピー用紙に手書き、構成はWordやnoteのフォーマットにそのまま書いている体たらく。
WorkFlowyやScrivenerなど、それまで名前すら聞いたことのなかったツールの名前が次々に挙がっているのを見て、自分がいかに書くことへの環境づくりに無頓着だったか、まざまざと思い知らされた。

インタフェースが固定、有限化されているというのは、あまり言われないけど大事なんですよね。でもって、ちょうどよくキレイな感じだとなおよい。要するに、キレイな部屋で仕事したい。
(p42, 千葉さんの発言より)
伝わるかわからないですが、WorkFlowyのトピックくらい狭々しくて、ちょっと事務的なUIの場所のほうが安心するというか......。
(p54, 瀬下さんの発言より)

アウトライナーにまつわる彼らの話を読んでいると、これはまさに、デジタル空間に書斎をつくっているようなものじゃないか、思った。

アイデア出しから資料の収集・整理にはじまって、構成の整理や原稿の執筆・推敲に至るまで、「文章を完成させる」というゴールへのプロセスをどれだけ快適なものにできるか。
それはつまり、自分にとっての理想の書斎を、パソコンの中に作りあげるということなんじゃないかということだ。
そこに気づいたときは、目から鱗のジャックポットだった。

諦めるからこそ、書けるものがある

アウトライナーの話から読み進めていくと、話の主題は「書くことの苦しさ」へと移っていく。
そもそもアウトライナーなどのツールを駆使して作業環境を整備するのも、根源をたどれば「書くことの苦しさ」を少しでもやわらげるためだ。

ツールが思考に対してどんな影響を与えたかという話について、千葉さんの言葉を拝借していえば、「思考しないで思考する」ことに使えているのかなと。アウトライナー上で作業していることが、かなりの部分、全部ではないですが思考の肩代わりをしてくれている。
(p103, 読書猿さんの発言より)

念のためいうが、本書で対談を行っているのは文章の素人ではない。
全員が著書を著していたり、雑誌やウェブメディアに文章を寄稿していたりするプロの物書きだ。
そんな人たちでさえ、いやそんな人たちだからこそ、彼らの口から語られる悩みや葛藤は、何かを書いたりつくったりしている人々の心に響く。


「書き始められない」「書ききれない」「自分の文章に自信が持てない」
それらの苦しみを乗り越えて、なんとか自分の文章をカタチにするためには、どうしたらいいのだろう?

本書では、その答えを「有限化」という言葉で提示した。
揺蕩う自らの思考を、まずはっきりとした形に定めてしまう。良い意味で自分の文章に「諦めをつける」ことが、何より重要なのだという結論に至る。

例えば、〆切の存在。「ここまでには(絶対)完成させなければいけない」というように時間に有限性を与えることによって、何とか今あるものだけで完成させようという強制力が働くという。

結局、原稿にとっての最大の有限化装置って〆切じゃないですか。〆切り直前に急に書けてくるときがありますよね。「うお、なんかすげー繋がってきた!」みたいな。これって実際は〆切が近づいてきたことによって、不要な部分や現時点では実現不可能な部分が落ちていって、今回はこれだけしかできないという限定的な形が明確に見えてくる。そのことで筆が走るってことだと思うんですよ。
(p79, 山内さんの発言より)

人間は得てして、理想と現実のはざまを頼りなく揺れ動くものだ。
そこに現実的な制約を与えることによって「もっといいものができるはず」という理想への願望をへし折って、現実的な落としどころを見つけていく。

うんうんと頷きながら読んだ。
それができれば苦労しないんだよなー、と思いつつ。

もっと自由に書いていい

1回目から約3年後に開催された座談会では、話題はより抽象的なもの、つまり「書くこと」への本質へと迫っていく。

会に先立って、4名の書き手はそれぞれの「書くこと」に生じた自身の変化について、8000文字程度のエッセイを執筆している。
そのエッセイを通して、読書猿さんは「自らの時間と能力についての限界」を、千葉さんは「意味的に凝縮された文章への強迫観念」を、山内さんは「際限のない欲望/幻想への憧憬」を、瀬下さんは「文章を書くことに付随するしんどさ」を、それぞれ手放そうと試みているのが感じられる。

めいめいの苦闘を経て再び一堂に会した彼ら(Zoomでの対話だったため実際には会っていないが)は、3年前に語った執筆の苦しみについて答え合わせをするかのように言葉を重ねていき、自分たちの試行錯誤を「我執から離れて他力へ」至る道であると総括する。

この四人に共通するのは、ちゃんとしなければならない、だらしないのはダメだ、という規範に縛られてきたということだ。
(p265, 『あとがき』より)

書くことの苦しみは「こうでなければいけない」という自らの規範意識、もしくは「クソみたいなものを書いてしまった」という自責の念・罪悪感から生じる。
だから、その自分で生み出して自分を縛っている枷を取り払い、いかに「書かずして書くか」を模索していくべきなのだと。

言葉ははじめから自分のものではなくて、これからも決して自分のものにはならない。だから、自分自身のだらしなさを肯定して、外的要因により生じる偶然も全部ひっくるめて、言葉を綴っていく。

「我が意を離れ、在るがままを受け入れる」
3年間の探求の末に4人の書き手がたどり着いた答えは、まるで仏教の教えかのような、没我の境地へと進む一歩だった。

おわりに

作業環境がうんたらかんたら、という出発点からはだいぶずれてしまった気がするが、結局のところ「書くこと」をいかに生活に自然に溶け込ませるかが肝要なのだと思った。

通勤の行き帰りや歯磨きの最中など、普段何気ないタイミングではいいアイデアが自然に浮かぶのに、いざパソコンの前で身構えて言葉を出そうとすると全然出てこない、そんな経験は僕にも山ほどある。

それはたぶん、「書くこと」を自分の生活から独立した、何か崇高なもののようにとらえているからで、そのあたりをもっと自然に、それこそ歯を磨くように無意識でも行えるように、自らの生活をアレンジしていくことが大事なんだと思う。

どんなツールを使うか、どうやってアイデアや情報を整理するかなんかも、そうした行為を特別な作業だと身構えることをせずに、テレビ番組の録画をするみたいにさり気なくやる。

つまりは、自分の生活そのものに書斎をまるまる「埋め込む」感覚で、文章を書いていけたらいいな、なんて思っているわけである。

マホガニーの机なんかは、まあしばらくは夢見るだけにとどめておこう(笑)。




↓今回紹介した書籍

↓座談会のようす(下記リンクで無料で読めます)


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