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愛の群青

全てのビルが、青く、透き通っていた。水族館のあの青だ。空から降り注ぐ光はビルの壁に当たって跳ね返り、より鋭く、刃のように私を目掛けてまっすぐに伸びた。

静寂は、死だ。たった一人、私だけが体温を持つ。死に気付かれないよう、ひっそりと暗い息を吐く。誰にもぶつかることのない肩を震わせる。履き慣れたニューバランス998を手に持ち、つま先をピンと伸ばして、冷たい交差点へ降り立った。

電車はまだ動いていない。どこか遠くを走る、トラックの音が僅かに耳に届く。歩行者信号が青になって、私は白い線の上を跳ねた。静かに、静かに。つま先から横断歩道へ降り立ち、膝に体重を乗せ、次の白い枠へと移動する。一歩ずつ、体を回す。視線は、JR渋谷駅のハチ公改札から離さない。スクランブル交差点に設置されたビジョンは、私のために音楽を鳴らす。――或いは、死のため。

視線を感じる。109の喫煙所。ロクシタン。渋谷TSUTAYAの二階。傷だらけの腕を高く掲げ、回りながら視線をやってみても、その瞬間、その目は青い光に消される。

冷え切ったつま先が、トン、とセンター街の入り口に着地する。

その瞬間、私は、背後を無音で横切ったトラックの風でバランスを崩した。アン、ドゥ、―― 派手なピンクの車体が、尻餅をついた私を置き去りにする。昼間はどんな街でも「高収入」と大声で歌い続けるその広告トラックは、私を冷ややかに一瞥して、道玄坂を上って行った。

「遅刻だよ」

ぱこん、と間抜けな音と共に、私の頭頂部に軽い衝撃。数ミリ引っ込んだ首をポキポキ左右に鳴らして、まだ私の頭に乗っているパステルカラーのシューズを奪い返す。

カラスのような黒いマスクと、綺麗に染まった金色の髪の毛の間で、櫟くんは半開きの目をぎょろぎょろと動かした。

「靴底で人の頭を叩くだなんて!」

「靴を拾った上に、叩きやすい位置に頭があったんだ」

踵の削れた靴を履き直して、立ち上がる。櫟くんの薄っぺらい背中を追って、センター街に足を踏み入れる。夜が沈み、朝が地べたから徐々に染み出してくる。普段の熱気は鳴りを潜め、辺りはゴミのにおいで充満している。公園通りの青は、センター街には届かない。

マクドナルドを通り過ぎて、雑居ビルの一つに入る。施錠されていないフェンスを開け、狭い路地を抜けると、錆びた非常階段がある。半年前までは各階の人たちが掃除も除菌もしていたのだけれど、もはや諦めてしまったらしい。最近は、櫟くんか、**さんだけが、時折思い出したかのようにごそごそと綺麗にしているばかりだ。だから、誰も手すりには触りたがらない。錆びて塗装の剥げた鉄製の手すり。幼い頃、鉄棒に掴まって、何度も逆上がり練習をした記憶。赤くなった手のひらにこびりついた、独特のにおい――


昼過ぎに仕事を終えて外へ出ると、私と年端の変わらない人間たちが、笑いながら何人も目の前を通り過ぎて行った。人のにおい。あの鈍い、海の底のような青は、どこにもない。のっぺりとした、暑さ。私を包んだ「死」などハナから存在しなかったかのような、紛れもない「生」の群衆。

「暢気だよなあ」

**さんは三杯目のビールを空けると、電子タバコを咥えた。奥さんと子どもは、東北の実家に帰している。

「俺たちが、っすかあ」

櫟くんはお酒があまり強くない。黒いマスクを顎にずらして、顔をほんのり赤くしながらあほみたいに笑う。金色の犬歯をきらりと光らせて、酔っていることに気が付かずに更に酒を煽る。

「俺たちも、だな」

「みーんな、他人事。だぁれも、自分が、なんて思わないんすよ。いつかその時になって、まさか自分が、って、言うんすよ」

私はぺちぺちとスマホの画面を何度か叩いて、ゆずハイボールを一口飲んだ。終わることのないメッセージのやりとりに飽き飽きして、やがてスマホの画面をテーブルに伏せて置いた。

**さんと、不意に目が合う。指に刻まれた梵字の刺青。その内の一つは、**さんの心臓の上にも刻まれている。身体をぱっくり割って心臓を取り出したら、そこにもあるのかもしれない。

《……による、死者数は……人を超えました……》

壁に設置されている大型テレビでは、日に日に増える死者をカウントし続けている。あの中のどのくらいの人と、私はすれ違ったのだろう。同じ車両に乗り、同じ店で服を買ったのだろう。あの日、路上で弾き語りをしていた綺麗なあの娘は、今頃どうしているのだろう。私は、あの娘以上に、フランネルのシャツが似合う娘を、知らない。

膨れ上がる数の一つには、櫟くんの恋人も含まれている。隔離され、死に目に会えず、葬儀会場には入れてもらえなかったという。

櫟くんは、感染しなかった。仕事を優先し、遊びに呆けて、気付いたら、彼女はいなくなっていた。一年中付けているマスクのせいで、彼女の匂いも覚えていない。重たい前髪で、彼女の姿は隠れてしまった。


愛って、なんだ。


テーブルの下で、櫟くんの足が、私の足を蹴る。

 死 を使って、甘えるな。ごまかすな。――そういうことじゃねえだろ。


愛って、いうのは、もっとこう、


二人の後ろをついて、スクランブル交差点を渡る。点滅する青信号を振り返る。疎らな往来の向こうに、確かにそれはある。109の喫煙所。ロクシタン。渋谷TSUTAYAの二階。頑なな愛が、私を殺したがっている。残念なことに、死んだ人は、生きている人を、殺せない。

ピンク色の車体が、高らかに「高収入」を謳い、過ぎ去って行く。このご時世に、高収入の価値がどれだけ高いか、私にはよくわからない。トラックが道玄坂を上り始めた頃、不思議なことに、視線がふっと消えた。「死」は、高収入が好きなのだろうか。みんな、あのピンクのトラックの荷台に、乗って――

「何してんの。帰るよ」

酔ってへらへらした櫟くんが、**さんの腕にしがみつきながら、私を呼ぶ。マスクの上で、泣いているんじゃないかってくらい、目が潤んでいる。生きている。彼の目は、必死に、生を全うしようと、輝いている。

次第に遠ざかって行く広告車の音を聴きながら、私は、つま先から一歩ずつ、ゆっくりと回る。視線は、JR渋谷駅のハチ公改札。四回転目で、二人の元へ辿り着くだろう。生ぬるい空気を、掻き回して、二人の元へ。


 愛 を使って、甘えて、ごまかして。そういうことじゃ、ねえだろ、って。

鈍く発光する私の奥底の水面に、意識が落ちる。蒼い水溜まりが、私の全身を侵食する―― ああ、それまで、 それまで。

私は、これが "愛" だと、 うそをつく。

来世は幸せ。