見出し画像

Emerald

月が恐ろしく綺麗な夜だった。漆黒の紙の裏側から、煙草の火を押し付けたような月。煙みたいに薄い雲が、空の表面をゆっくりと撫でている。

人の疎らな街。僕のいる場所はいつだって片隅で、僕の世界にはいつも僕がいない。僕の目は光にとても弱くて、薄い色のついた眼鏡を掛けている。この世界はエメラルドの都で、僕はレンズ越しに生きている。ドロシーのいない、進まない世界。

僕は、考える。兄のこと。似合わない髭。ボサボサの髪。踵の擦り切れた革靴。ドロシーのこと。おさげをばっさり切り取った赤い髪。ドクターマーチンのブーツ。Eカップ。ぴったりした黒いニット。柔らかい二の腕。欲情させる為だけの真紅のフットネイル。右耳のトラガスのピアス。――僕は、考える。兄のこと。ドロシーのこと。


「ネズミちゃんじゃん。何してんの」

「……何、も 」していない僕の頬に、細い指先が「チュウ」と触れる。それは鼠ではなく、たぶん、狐だ。僕らが『シブヤ』と呼ぶその女の子は、闇に溶け込むような美しい黒い髪を揺らしながら、僕の横にしゃがみ込む。

「勝手に入っちゃだめなんだよ?」

「……新宿にいるの、珍しいね」

会話にならない会話。僕が背もたれにしている鳥居を撫でながら、『シブヤ』は笑う。『シブヤ』はいつも渋谷にいるから『シブヤ』なのだが、新宿にいることもあるようだ。僕は、それがおかしくて一人でちょっとだけ笑う。不思議と、二人で同じことに笑っているような気がして、僕は嬉しい。僕は、――そう、 嬉しい。

「終電を、」

「……逃しちゃったんだね。こんな時間だもんね」

僕がとてもゆっくり喋っても、『シブヤ』は気にしない。太陽の下の渋谷で見る時と全く同じ、とても可愛らしいのに計り知れない強さを秘めた笑顔で、僕と会話をしてくれる。

午前二時の花園神社。僕は、話す。他愛もないこと。終電をなくしたこと。僕は、聞く。『シブヤ』のこと。終電をなくしたこと。この街のこと。死んだ人のこと。死ねなかった人のこと。僕は、見る。『シブヤ』はとても美しく跳んだり、回ったりする。『シブヤ』は、エメラルドの世界の中心で腕を広げ、蝶のように空を廻した。


「ネズミちゃんは、愛って何だと思う?」


僕は、考える。愛。愛。愛。

兄のこと。だらしなくて、品が無くて、優しくない、兄のこと。ライオンと呼ばれた兄のこと。僕に意地悪をする兄のこと。嫌いになれなかった兄のこと。

愛。

ドロシーのこと。賢いフリをしたエロい女で、いつも兄と一緒にいた、ドロシーのこと。僕を唆した、ドロシーのこと。兄を愛しているくせに、僕にも愛を囁いた、大好きなドロシーのこと。

『シブヤ』の匂いがした。バニラビーンズを想起させる、甘い匂い。生クリームの乗ったプディング。アメリが叩き割ったクリームブリュレ。大草原の真ん中で抗いようのない風に煽られたように、僕の頭の中が急速に冴えていく。


僕は、考える。


赦すことだ。


『シブヤ』は、ふふっと笑う。無邪気に、笑う。まるで僕の考えが透けて見えているかのように、僕の目を、じっと見る。

「……ねえ、ネズミちゃんの瞳って、何色なの?」

『シブヤ』が僕の眼鏡にそっと手を伸ばす。僕は、目を瞑る。

『シブヤ』が僕の眼鏡を掛ける。その気配で、目を開ける。


エメラルドの都は、ただの空虚な都会だった。どこかでトラックが走る音。白い砂利。人気の無い靖国通り。陰影だけの、新宿。

僕は、空を見上げる。丸くて、大きな、赤い月。空はほんのり明るい群青色で、ヴェールのような薄い雲。なんと美しく、恐ろしい夜だ。僕は、泣きながら跪きたい衝動に駆られる。赦されるなら、僕は。――僕は。


「……泣いてるの?」

「……僕は、光に、」弱いんだ。とても。


世界が、暗いエメラルドに侵される。目の奥が沁みて勝手に溢れていた涙を、優しく拭われる。『シブヤ』は、「朝がくる前に、」と囁いて、僕の手を握った。華奢な手からは想像出来ないくらい強い力に導かれ、僕は立ち上がる。

「その眼鏡、凄いね。全部が、とっても綺麗に見える」

風上から、『シブヤ』の軽やかな声が聴こえる。

「……僕の、瞳は、 」

バニラビーンズ。プディング、クリームブリュレ。鼻腔に届く、『シブヤ』の匂い。


「ネズミちゃんの瞳は、」


僕は、考える。兄のこと。死んだ兄のこと。

僕は、考える。ドロシーのこと。死んだドロシーのこと。


僕は、赦す。

進まない世界で、僕は、愛に殉じて、 (死ぬ)、

来世は幸せ。