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あの子の、めいてい

 早朝の新宿、歌舞伎町。ゴミの回収と、眼下にある昼キャバの看板を眺めながら雑炊を食べる。目の前にいる素性の知らない四十代男性二人の仕事の話を聞いちゃいけないものとして聞き流す。まだ酔いが脳味噌の周りをもやもやと回っていて、ビールよりマシだと思って頼んだ馬鹿みたいに濃いウーロンハイが更に私を酩酊へ導く。僅かな記憶の欠片は液状化して、金持ちの家のふかふかの絨毯に零れた赤ワインのように、染みて、 或いは、そう、いつだったか、あの娘が先輩の家のクッションに、つけた、 経血――

高校までの教科書、拙い文字の並んだノート、ろくに開かなかった参考書。解答を眺めるだけの赤本。私の抜け殻になった、紙の山。全てを紐で括りながら、山川の倫理用語集だけ、そっと抜き取った。文字の、羅列 。 呂律の 、回らない、 麻痺した舌。 アリストテレスも私の前では無力で、 カントも私の前ではローテーションが狂う。付箋が示す過去の自己顕示。鞄の奥底で、死にたいと 宣う 、 今の私よりも、ずっと、ずっと、 生きていて いい 私。 それじゃあまるで今の私は生きてちゃだめ、死んだ方がいいみたいじゃない? 私のことが可愛くて仕方がない私がうずまきの向こうで嘯く。 私に"死"を仄めかす。そのくせ、こいつは言うのだ。 ホモルーデンスとして、文化を形成しよう、と――

「……聞いてる?」

グラスを掴み損ねた私の手に絡み付くように、××さんの骨張った指が、私の指の間を、這う。蛇。手が生えているから、蛇足極まりない、と、 うずまきの向こうで囁く。

「聞いてませんでした。もう一回お願いします」

「二回は言わない主義だから」

「好き、とか、言われてたかもしれない」

私のだらりと伸びた左腕をデコピンの要領で弾いて、××さんはレモンサワーに口を付ける。晄さんがその横でにまにまと笑う。××さんは痛風だからビールが飲めない。晄さんは高血圧の薬を飲んでいる。次倒れたらたぶん死ぬ。私は馬鹿だから、病気にならない。

世界が回る。遠心力で、私が、わたしが、 飛んでいく。あの夏、セブンティーンアイスクリームの自動販売機の横にいた、白いセーラー服の、女の子。溶けてべたべたになった、白いスティック。ああ、 真っ白な、 無垢な―― マスクで朝日を反射させながら出勤してきた昼キャバのボーイを眺めていたら、後頭部をごつん、と殴られた。

「なぜ」

「聞いてなかっただろ。モニカが死んだんだよ」

「うそん。え、泣いちゃう」

ほんとに泣いちゃう。モニカはベリーショートがよく似合う、とってもキュートな女の子だった。一年前、初めて会った時、モニカの左足の甲に一匹のムカデがいた。ペニちゃんと名付けられた刺青は、自分で彫ったとは思えないほどリアルで、モニカにそっくりな愛嬌を携えていた。半年前、太腿に新しく現れたムカデの名前は、私が付けてあげた。モニカは、本当に、本当に、可愛かった。

××さんと晄さんは、悲しいのだろうか。それどころじゃないのだろうか。体調不良を訴え、二週間前に休みを与えた女子バイトが亡くなったのだ。何もかも終わりみたいな影響が出る。私は、涙しか出ない。昨日も、一昨日も、その前も、誰かが死んだ。仲のいい人もいたし、全く知らない人もいた。誰もが知っている芸能人も死んだ。私は、おじいちゃんが死んだ時と同じくらい泣いた。でも、誰が死んでも、私は、わたしは、 悲しい、

冷めきった雑炊を口に運んで、舌で歯や歯茎に押し付ける。にちゃにちゃと口の中ですり潰すように食べる。ウーロンハイを飲んでいたら、さっきの昼キャバのボーイが箒と塵取りを持って出てきた。マスクをしていない方がかっこいいから、鼻とか口とかのバランスがいいんだ。顎ヒゲがよく似合う。もしくは、黒服姿が―― 欠伸をしながら上を向いたお兄さんと目が合った。手をひらひら振ったら、笑って返してくれた。お兄さんは知らない。私は、柔らかいものを食べる時、あなたの想像を遥かに超えた、汚い咀嚼をする。

「知り合い?」

「しらな~い」

おじさん二人が窓の外を覗き込んだせいで、お兄さんはさっと視線を逸らして仕事に戻ってしまった。お兄さんの背中が、陽光を照り返して、眩しい。 ああ、眩しい。大きな羽のように左右に広がった、眩しい、光。いつか掴み損ねた、あの光、天使の姿――


 ゴールデン街手前の公衆トイレで一通り吐き終えて、石垣の上に倒れ込む。晄さんはどこかへ忙しなく電話を掛けている。××さんを見上げると、笑いもせずに私の寝そべる石垣に背中を付けてしゃがみ込んだ。

「……帰りましょうよ」

どこにだろう。すっかり冴え切った頭は、緑の下でぐるぐる回る。誰一人歩いてこない緑道。ゴールデン街。行きつけの店のあの常連が亡くなったのは、いつのことだったか。

××さんは、だらりと下がった私の手をまじまじと見つめて、そうだな、と呟くように口を動かした。声は聞こえない。まるで自身も石に同化してしまったかのように、動く気配のない体。車の走る音。区役所通りの方は、僅かに人の気配がある。生きているのか、死んでいるのか、それはわからない。わたしには、何もわからない。

電話を終えた晄さんが戻ってきて、私たちに動けるようになる魔法をかけてくれた。たくさんの細かい、キラキラしたラメのような粉(或いは、半透明の黒い靄かもしれないし、真夏のプールに足を突っ込んでバタバタと足を動かしたときに浴びる水しぶきかもしれない)が、私たちに降りかかって、体が動く。二人の声が、風下の私に届く。すり抜けていく。時折頬にぶつかるけれど、その声は、言葉としては聞き取れない。

緑道を抜ける直前、私は、小さなムカデを見つけた。へえ、都会にもいるんだ。たくさんの足をバラバラに動かして、一生懸命這っている。命がある。


ぱきゃ、と踏み潰す。


本当は映画のポスターが並んでいたはずのピカデリーの外観を遠目に見ながら、××さんが思い出したかのように渡してくれたマスクをつける。

私は馬鹿だから、病気にならない。

わたしは、 ばかだから、 うまくしねない。

早く夏になって、また、アイスが食べたいと思った。バニラアイスに、チョコクッキーの入った、棒付きアイス。でも、私は、知覚過敏だから、冷たいものが、食べられない。

来世は幸せ。