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世界観ってなんだろう

こんにちは。暑さが本格化してきましたね。さて、、、


写真を撮るようになってから「世界観」という言葉が頭を離れません。

「世界観がある」というのはどういうことか。

始めたばかりの頃の写真のクラス。他の人の作品に対して「世界観があるね~」と講評されていた一方、自分にはそう言われなかった。

なんだかものすごく悲しかった。自分を否定されたような気すらした。

下手は下手なりにも、いや、写真に限らずどんな世界の誰にも「世界観」はあるのではないか。あるはずだ。

その問いに対する明確な答えは出せていないが、「こういうことなんじゃないか」という仮説がうまれてきた。それを一旦、書いてみようと思う。

ちなみに、現段階では自分なりの仮説を持ったにすぎず、それが正しいかどうかか、検証することで「世界観」を表現できるのかはまだわからない。

1. 世界は「自分と相手」だけでは完結しない

何事も始めたばかりの頃は、「自分が何を伝えたいのか」に必死になる。

そして「目の前の誰か」に「自分はこう思う!」とただただ必死に、自分の答えを投げ(つけ)てしまう。

一方、「いいなあ」と思う写真家を含む芸術家の作品には、コンセプトや技術的完成度の高さは言うまでもないが、「なぜ?」がある。つまり「何を意味しているんだろう?」と思わせる部分がある。だからこそ、その世界にぐっと引き込まれる。

その芸術家自身を知らない、まったく違う世界の第三者にも開かれている。

2. 「鑑賞者の取り分」~世界観に入り込む余地を残す

天賦の才のカケラもない私は、その正体を掴もうと、時間の許す限り、思いつくことを手あたり次第、試してみた。

そこで出逢った言葉が「鑑賞者の取り分」。

誰の言葉だったか思い出せないが、自分が表現したいテーマを提示したうえで、

鑑賞者がそれぞれ思い思いに「それはこういうことなんじゃないか」と、 想像したり、意味付けしたりする自由を残すということ。

表現者のモノローグで終わるのではなく、鑑賞者と対話する余地があるからこそ、表現者の世界が、表現者自身が意識するよりも深く広く伝わる。

3. フロー体験~自己を超越して「世界観」を表現する

要するに、自意識に閉じこもっているうちは「世界観」なんて表せない。

「世界観」は誰にもある、というところまでは正しい。

ただ、それを表現するためには自意識を越えなければならない。

かつて読んだ本『フロー体験 喜びの現象学』(M.チクセントミハイ)にヒントがあるかもしれない。

非常に示唆深い本で簡単には語れないが、相当思い切って要点をまとめる。

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というわけで、私の「世界観」を形作る長い長い旅は続きます。

読んでくださってありがとうございます。

本日のトップ画像は、バンコク・スワンナプーム空港を10mmのレンズ(Voigtlander HELIAR-HYPER WIDE 10mm F5.6 Aspherical)& Sony α7RIIIで撮影したものです。

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