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桜に憑かれた夜

今は昔、ひと時ではあるが表参道のあたりに住んだことがある。
表参道ヒルズのところに、まるで軍艦島で目にするような古めかしくて厳 (いか) つい姿のアパートがあった頃だ。住所で言えば神宮前になるのか、きらびやかな店の並ぶ表参道や青山通りも、一歩裏手に入ると驚くほど地味で静かな住宅地が潜んでおり、見るからに築年数を重ねたアパートも当時はそこここにあった。

僕の部屋も、何の変哲もないコーポラスの2階で、狭い裏通りに面して申しわけ程度のベランダがあったのだが、そのベランダの鼻先には桜の老木があり、ほとんどその木に視野が遮られていた。正直、いろんな不便を気にせずその部屋に入居を決めたのは、その桜が目の前にあったということだけだった。

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うっすら雪まで積もった花冷えも過ぎ、春の暖かさが緩やかな風とともに戻ってきたその夜、桜の老木はその年最後の晴れ舞台を舞っているかのように妖艶な姿で枝を揺らせた。普段は安っぽさが目立つ斜め前のタクシー会社の看板がこのときばかりはちょうどいい角度から桜を青白い光で照らし出してくれる。

僕は銭湯で十分に温まった体にフリースを羽織り、窓を開け放ってベランダに半分乗り出した格好で、昔はどこにでも売っていた薬瓶のような形をしたマテウスのロゼを口飲みしながら、低い音でフランソワーズ・アルディの音楽を流しつ、一人夜桜を楽しんでいた。

ひと筋さっと風が吹くと、まるで後ろで黒子が操っているかのごとく、一直線に桜の花びらがきれいに尾をなして飛んでいく。その様子はたとえようもなく美しい。あの花びらの飛び行く先は別の次元なのではないか・・・そのような夢心地に浸っていると、ふと、窓の下から桜を見上げている ひと気を感じた。裏通りといっても東京の街中である。人が通って何の不思議もないが、もう日付が変わろうとするような時間にしてはそれも珍しかった。

二十代後半と見受けるそのロングヘアの女性はなぜか右手にワインのボトルを持っていた。そしてこっちを見上げてそのボトルを掲げるジェスチャーをしている。「乾杯」の合図だと思って僕もロゼのボトルを軽く傾けた。すると彼女はさらにボトルを高く掲げ、もう一方の手でそれを指差しながらしきりに首を縦に振って同意を求める仕草をするのだ。

なるほど一緒に飲もうと言っているのだと理解した僕は指で部屋の中を指すと、彼女は大きく頷き窓の真下まで近づいてきて「何号室?」と囁くように聞いた。僕はとりあえず脱ぎ捨ててあった靴下を洗濯カゴに放り込んだりしたが、それ以上のしつらえをする間もなく、すぐに部屋のチャイムが鳴った。

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ドアを開けると案外に背の高い、ほっそりとした、美しいのか幼いのかなんとも形容のし難い色白の小さな顔の人が「こんばんは」と言ってまだ開けていないボルドーセックのボトルを差し出した。首筋には桜の花びらが貼りついており、少し上気立っているのは酒のせいかも知れない。僕は「どうぞ、こんなところだけど」と彼女を招き入れた。

グラスを用意している僕の背中に彼女がいきなり「アムステルダムの飾り窓みたいだね、いつも。」と言ってきたので、多少緊張していた僕もいっぺんに気が緩んでくすっと笑い「いつもってどういうこと?」と尋ねた。

「実はよくここを通るのよ。あなたいつも窓に座ってるし。」
「そんな人この世にいっぱいいるでしょ。」
「どうかな。それにあの鉢植え。」
と彼女は窓辺に並べたプランターを指差した。
「あんな雑草、窓辺に並べている家はないわ。変わった人が住んでると思ってたの。」といかにも楽しそうに笑った。

プランターにはハナダイコンしか植えていなかった。ハナダイコンはナズナのような植物で、しかし花は黄色ではなく明るい紫色をしている。関東ではどこでも見掛けるがなぜか関西では目にすることがなく、そのせいか僕はいたくこの花がお気に入りで、実はその辺の道端にあったのを掘り起こしてきて、花の咲く前からプランターで育てていたのである。この季節には壮大な薄紅とハナダイコンの紫色を重ね合わせ部屋で一人悦に入っていたので、これはちょっと痛いところを突かれたなと思った。

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その動揺を隠そうと思って、乾杯の後、
「ぴっちぴちの男が住んでるんだなぁって、窓を見上げて思ってたんでしょ?」
と訊くと、彼女は口に含んだワインを噴出すような仕草をして、
「まさか。あー、あの人が雑草を育ててる人なのねと思ってた。でもまあ今夜ボトルをラッパのみしてる横顔はそこそこだったよ。」
「言うよね。で、なんで夜中に素手にワインボトルを引っさげて歩いてんの?」
「ああ、これ友達んちから勝手に持ってきちゃった。女の子ばかりで飲んでたんだけど、みんなにいろいろ言われて居心地悪くなってね、それで気づいたらボトルを持って飛び出してた。」
「ふーん」と僕がまた外の桜のほうをぼんやり見ていると、
「何をいろいろ言われたとか訊かないのね?」と彼女がちょっと不満げに言った。
「名前も知らない初対面の人にあまり込みいったことを尋ねるのは無作法かと思って。」
「あ、そっか」とそこで互いの通称を名乗りあった。

彼女には不倫関係にある恋人がいると話し始めた。そんなに会えないし、でも会えばいつも優しくしてくれるし、自分の年齢では知ることのできない世界も見せてもらえるし、先がないと十分に解ってはいても今の居心地がいいからそれでいいと思っていた。でも友人たちはそういう彼女を表面上は自由でいいよねと羨んでいる振りをしつつ、本当はすごく軽蔑しているというのが今夜飲んでいてよく判ったというのである。

僕はもちろん「ふーん」としか応えようがないし、彼女も僕の意見など求める気もなさそうなので、薄紅一色の窓の方を眺めながら「ふーん」の連発をするしかなかった。しかしそれは不思議と居心地の悪くない、ゆったりとまどろむような時間だったのだ。

そのうち彼女がぶら下げてきたボルドーセックは空いてしまったので、僕みたいな若造が麻布のナショナルで奮発して買い置きしてあったギリシアの松脂入りのレツィーナをこの時とばかりに抜栓した。
一口飲んだ彼女は「この香りは知らない人と桜を見ながら飲むのにぴったりね。」と少しこちらの肩にしなだれ掛かってきた。
「知らない人?こっちはもうそっちのプライベートな話を十分に聞かされてるけど。」
と言うと、彼女は座り直して、
「じゃ、君の話をしましょう。いつも窓から外を見てばかりで、ほら、遊びに行ったり飲みに行ったりとかしないの?」
「あ、神戸の人なのね。卒業旅行に一度だけ行ったわ。北欧の料理を食べて、靴を買って・・・」
「渋谷の南平台のところのトンネルあるでしょ。あそこっていろいろ出るのよ。」
「やっぱり桜がきれいのは小石川かなぁ、東京なら。」
などと、結局ほとんど彼女のペースなりにもゆったりと二人の会話は続きレツィーナもほどなく空いてしまった。

「もうこの家にはズブロフカしかないよ。桜餅の風味があるポーランドのウォッカ。」
「いいじゃない、この空気にぴったりで。」
ズブロフカも半分ぐらい空いたあたりで、こちらもだんだんと呂律が回らなくなり、いよいよ視野は回りだして部屋が大きな桜の幹の分かれ目にあり、四方が薄紅の世界に包み込まれているような錯覚に陥った。

僕はその後もきっと「ふーん」を連発しながら、彼女の髪の毛に触れているのか満開の桜に埋もれているのか判らないままに記憶が途絶えた。

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寒さと小鳥の声で目が覚めた。
閉めたつもりだった窓は開きっぱなしで、部屋の中にはたくさんの花びらが舞い込んでいた。
彼女の姿はどこにもなく、ただ空の瓶が3本と、シンクの横には洗ったグラスが2脚並んでいた。その横には手帳の切れ端が置いてあり、ほっそりとした字がしたためられていた。

居心地のいい夜をありがとう。
また来年会えたらいいね。
桜子

その夜以降、彼女は一度も姿を見せず、窓の下の通りでも見かけることもなく、そして僕は次の春にはもう別のところに移り住んでいた。

公園の木々が色づくころ一度だけ、代々木上原の改札口で彼女とすれ違ったような気がして、思わず振り返ったら目が合った。
しかしその姿はすぐに夕方の人波にかき消されていった。

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