見出し画像

モーゼの魚 (閑話休題)

『モーゼの魚』

ある年の冬、忘年会シーズンも過ぎ行く頃だった。ちなみに僕が「ある年」と言うときには、だいたい四半世紀ほど前のことだと思ってください。その年はカレンダーの巡り合わせが良く、サラリーマンは上手に有給を取れば年末年始にかなり長い冬休みが取れたので、今は亡きケンちゃんを誘い出して、どこか海外、そうだブラジルへ行こう!という話になった。

はいよ、ということになり、旅行会社に勤めているケンちゃんにすべて任せて自分はポルトガル語の勉強しかせずにいたら、なんとクリスマス前になって「ブラジルはビザが要るらしい!しかも大使館がクリスマスから休みに入っててもうビザ発給の見込みがない。」とケンちゃんから緊急連絡。え~、ケンちゃん旅行会社やん!とディスっている暇もない。早く早く、代替を探そう!ということで、出国の5日ほど前になって、まったく違う方向、僕にとっては「勝手知ったる他人の国」エジプトへ行くことになった。

そんな紆余曲折があってのカイロ到着2日目、残念なことに、タクシーひとつ乗るにもケンカ腰の交渉、降りるときもお釣りをごまかされてまたケンカ、かといって公共交通機関は朝の山手線並みに混む路線バス、レストランに入ればウェイターとチップでいざこざ、などなど、生真面目な性格のケンちゃんはカイロの混沌とした日常から、それまでに経験したことのないカルチャーショックに襲われ、エジプト人に騙されるならまだしも、エジプト人を騙しに掛かろうとする僕を目の当たりにしてすでに心折れ、次第に言葉数が少なくなっていく。

たっぷり2週間の休みだったので、本当はルクソールの神殿や王家の谷、アブーシンベル大神殿などへのツアーも眼中にあったが、このままではケンちゃんがエジプト嫌いになってしまうと思い、外国人観光客は滅多に行くことのない、カイロから100キロほどにある砂漠の中のオアシス Faiyum (ファイユーム) に連れ出して、エジプトの本当の素晴らしさを知ってもらおうと思った。

そこで留学時代から懇意の土産物屋兼闇両替屋兼なんでも屋に頼んで、1日1万円ほどで運転手付きのメルセデスを出してもらうことにした。僕は留学時代はボロボロのプジョーや SIAT で、無秩序なカイロの道路や横道を、エジプト人に負けないぐらいパンパンとクラクションを鳴らし、窓からは拳を振り上げたりしながらゴキブリのように走り回っていたものだが、今回は短期の滞在であるし、安全を考えてレンタカーを借りるという選択肢はなかった。

こうしてエジプト3日目の朝、ファイユームに向けて一路僕たちを乗せたメルセデスは砂漠道路を南下していった。だいたいの行程において、砂に埋もれかけてはいるものの一応舗装された道路なのだが、空と砂礫と送電線以外に目に入ってくるものは一切なく、ことごとく退屈である。始めの1時間ぐらいは運転手と無駄話をしているが、それさえも話題が尽きてしまう。その頃、車は田舎道の悪路へと入り、やがてタイヤが砂の深みに嵌って動けなくなり、僕とケンちゃんは外に出てメルセデスを押す羽目になる。こういったことはエジプトではお約束なので、驚くべきほどのことでもない。

さて、ファイユームのオアシスだが、さして見るべきものがあるわけではないのだ。ただ太古からのオアシスにはゆったりとした空気が流れており、排気ガスと砂塵の舞うカイロの喧騒からは無縁の静けさはある。そこへオアシスで取れるデーツや巨大なスイカやラクダなどを売る人たちで市が立ち賑わう。

このファイユーム・オアシスのすぐ近くには、このあたりでは珍しく大きな湖がある。琵琶湖の3分の1ほどの面積だが、砂漠の中に忽然と湖が現れると思わず「おーっ」という声が上がるのだ。古代エジプト文明の頃には琵琶湖の数倍もある淡水湖だったらしく、水辺に住む象の一種やいろんな魚のすみかとなり、ナイル川とも運河でつながれていたという記録があるそうだが、歴史の流れと気候変動により干上がり続け、今は塩湖である。海抜もマイナス40メートルほどで、ヨルダンの死海に似たような地理環境にある (塩分濃度は死海の10分の1 ほどだけれど)。

水は濁っているわけではないが、あまりきれいではない。現地人はずぶずぶと水に入っていくのだが、足元もドロドロしていて、とてもじゃないけど水浴びしたい気分にはなれない。そんな水なのだが、この「カールーン湖」(Birket Qārūn) には唯一名物がある。シタビラメである。

塩分濃度が海水に近いので、おそらく海から移植されて育ったと思うのだが、栄養分がいいのかかなり大きく身の厚いシタビラメなのだ。当時の日本ではシタビラメといえばペラペラなのにとんでもない値段がしていたので、湖畔の大したことないレストランであるにもかかわらず、シタビラメのムニエルを僕らは数尾もレモンを絞ってつぎつぎと口に放り込んだ。

ところでシタビラメというのはアラビア語で Samak Mūsā (サマク・ムーサー) という、これは「モーゼの魚」という意味。諸説あるが、モーゼがその杖で紅海を割って道を作りエジプトを出たとき、たまたま居合わせた魚が真ん中で真っ二つに割れて表が黒で裏が白の平らな魚になってしまったからそう呼ぶようになったというのが有力。また出エジプト記にはコラとその一族がモーゼに反逆を企てた結果、神の怒りに触れて焼き殺されたという下りもあり、そのときモーゼがコラの持っていた財産を紙くずに変えてばら撒いたのがシタビラメになったのだという説もある。コラというのをアラビア語でいうとカールーンとなり、まさにこの塩湖の名前になるのである。ちなみに敬虔なユダヤ教徒はモーゼの魚シタビラメは食べない。

シタビラメの話が長くなり過ぎたが、お腹も一杯になりオアシスの散策が終わったら、日が傾き始める前に再びメルセデスに乗り、来るときとは違う道を通ってサッカーラ経由でカイロに戻る。サッカーラ (現地の人はサッアーラというが、発音しにくい) というのは、古代エジプトの首都だったメンフィスの西にあるネクロポリス (つまり死人の町) があった場所である。死人の町だからピラミッドも点在している。ギザのような巨大なものはないが、階段状のものや明らかに作りかけでやめたと見えるものもある。

作りかけで終わったようなピラミッドは、管理者もおらず、なんとなく出来ている取り付け道路を車で中腹まで登ることができた。中腹に車を止めてピラミッドの上の方を目指し、天辺近く西向きに腰を掛ける。目の前には果てしなく広がるリビア砂漠。ここまで来ると人工的なものは一切見当たらず、地球が明らかに丸いことを実感できる。

太陽は驚くほどの速さで沈んでいく。風に舞う砂の加減からか普段は自然に見ないような光の色が四方に散らばり、やがて空はグレナディンを垂らしたような茜色に変わっていき、熟した柿色の太陽が楕円形になって地平線に沈んでいく。

その間、だまって砂と風が擦れ合う音を聞いていてもいい。お気に入りの音楽があればそれをヘッドホンで聞いてもいい。いずれにしても、ここへ連れてきた人は男も女もこの日の入りを見て全員、すーっと一筋の涙を流すのである。

ケンちゃんも例にもれず、空が紫色になって圧倒的な星々が覆いかぶさるようになるまで、ひと言も口にせず呆けたような表情で座っていた。

そうしてカイロに戻ったが、戻った途端、ケンちゃんの精神状態は元通りで相変わらず冴えず、もうこれはこの国にいるのは良くないと判断した僕は、次の日にダウンタウンにある Tunis Air のオフィスに行って、翌日のカイロ - チュニス便を予約した。

翌日、空港の銀行で余ったエジプトポンドをドルに両替しようとしたが、この国の規定で一定金額以上は外貨に戻せない。そこで僕は日本から持ってきた数百円の小さな計算機を銀行の窓口にすーっと差し出して、「もう一度これで計算してみて。そうすれば全額ドルに変えられるはず。」と、アゴでその計算機ごと取っておくようにと合図した。案の定、全額ドル紙幣が出てきた。そしてもちろん、遵法精神の強いケンちゃんにはまたしかめっ面をされたのだが。

エジプトからリビアを飛び越して3時間、チュニジアに着いたケンちゃんは人が変わったかのように元気になり、もりもり食べて夜遊びも怠らず、南部ジェルバのリゾートでは真冬のプールにも飛び込んだりした。

僕はそのとき人生8度目のチュニジアだったが、心の底からバカンスを楽しめる国だなと改めて実感した。そして飽きもせずまた出かけたサハラ砂漠ツアーでテレジータに出会うことになるのである・・・・。

テレジータの話はそのうち。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?