見れない映画2:なぜ働いていると映画が見れなくなるのか
なぜ働いていると映画が見れなくなるのか、なぜ家族ができると映画が見れなくなるのか、なぜ大人になると映画が見れなくなるのか、見れないと思っているだけで実はそんなこともないのか。もやもやと悩みを抱えつつそれとよく似た別の悩みに効きそうな流行の一冊にあたる。三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(2024)。
『花束みたいな恋をした』の猫のこと
果たして労働と趣味の読書は両立するのか、内容に入る前に過去と現在の比較を行き来する本書で現代の価値観の代表として何度も参照される一本の映画に触れておかなければならない。
「生活をするためには、好きなものを読んで何かを感じることを、手放さなくてはいけない。そんなテーマを通して若いカップルの恋愛模様を描いた」と紹介される『花束みたいな恋をした』(2021年)。三宅と同世代である私にとっても非常に馴染み深い固有名詞、小道具で彩られた映画であることは否めない。否めないが、というかだからこそというかこの映画を誉めることはできないというところからまず始めたい。
問題は一匹の猫だ。物語の中盤、千歳烏山と思しき京王線沿線の駅で同棲を始めた若いカップルが猫を飼い始める。一緒に住み始めたばかりの恋愛のみずみずしさを噛み締めて過ごす月日は束の間、やがて学生の身分を失い、仕事が忙しくてすれ違いも増える中で以前のように漫画や本や文化的な趣味を共有できなくなって同棲も解消するに至るこのカップルの物語に、生身の動物として問題の猫が登場するのは、思い出したように意味もなく真夜中にぴょんと跳ねるたった一つのショットだけなのだ。それを除くと、カップルが猫に関心を寄せるのはたった2度。名前をつける時と同棲の解消で引き取り先を決めるときだけで、それはいかにも記号的な生活の飾りのように単なる家具のようにだけとり扱われる。猫は本作に登場する「文化的固有名詞」と同じように、今村夏子や滝口悠生と同じように、名前だけが消費され彼ら彼女がどういう本を書いているのかその中身は問題にされない。
近い時期に公開された青山真治『空に住む』(2020)を引き合いに出すと猫の扱いの差は歴然としている。両親を亡くしたばかりの直実が高層マンションで新生活を始めるとき唯一の家族として彼女が連れてきた猫は、見知らぬ男の目の前に姿を見せない。彼女の恋愛の盛り上がりに合わせてただ新しい登場人物の前というのに限らず、物語自体からほとんど姿を消していくようになるとまるで主人公からも観客からも忘れられたことを気に病むように飼い猫は人知れず悪性リンパ腫を悪化させて亡くなってしまう。両親との別れから新しい恋愛へ、つまり人生の別のフェーズへと移行しかけていた直実にもう一度、それまで彼女がうまく向き合うことのできなかった家族との別れという問題と向き合うため「無視された猫の死」という主題が表面化する。裏返すと『花束みたいに恋をした』とは、せっかく登場した猫がそのように一度も活躍することのないドラマなのだ。
ところで私は90年代に生まれ、上京以来7年ずっと京王線ユーザーで、好きなお笑い芸人を聞かれたら天竺鼠かDr.ハインリッヒと答えるような人間だ。そういえば、京都の恵文社で買ってきた『たべるのがおそい』を貸してくれた、あの今村夏子を教えてくれた友人がいた。『ゴールデンカムイ』も『宝石の国』も連載が終わってしまった。あの頃の今村夏子はまだ知る人ぞ知るカルト的な人気の作家で、デビュー作について太宰治賞の選評で故加藤典洋から人称の扱いに関する重要な指摘をされてそのまま次回作を書くのが危ぶまれていたのだったけれど、それから結局彼女はまた書き始めて加藤亡き後に芥川賞作家となった。というわけで、世代としても、文化についての経験にしても私は本来、この映画の1番のターゲットになるような人間なのだ。
そういう人間にとって、この映画の猫の、今村夏子の、固有名詞の扱いが、それぞれただ登場人物の人間関係を描く小道具としてだけ機能する役割は物足りないということは公開当時から夙に述べてきた。特に就職によって読書から労働へ「転向」した菅田将暉演じる麦には、作劇の都合のために全く別の二人の人物が重ねられているようにしか見えなかった。パズドラに耽り、自己啓発書を読むサラリーマンになるような人物はそもそも学生の頃から読書などせず、ガスタンクのPVなどに縁もなく、趣味は〇〇で、バイトは〇〇で……などというとまた偏見に満ちた記述をしそうだが、そもそも一度も一連の作家の名前など聞いたことのないような学生ではなかったか。
読書のノイズのこと
本の内容に戻る。端的にまとめると、階級闘争を梃子に引き継がれてきた明治時代から現代までの日本人の読書の動機にまつわる経歴を一覧する書とまとめるられると思う。維新直後の「修養」から始まり、サラリーマンの誕生と並走する勉強本から自己啓発書までの100年史を彩る源氏鶏太、司馬遼太郎、さくらももこら流行作家で彩る事例の豊富さ、いちいち現代の価値観に照らし合わせる論旨のクリアさ、それらを自在に出し入れしつつ驚異的なリーダビリティを実現する手際の鮮やかさに舌を巻く。
特に90年代に始まる「経済の時代」の要約、00年代の「情報」という価値観への評価とゆとり教育についての見立て、10年代以降の労働ブームへの見解には、同じ時代に問題と向き合ってきた同世代の同士の言葉に思えて胸が熱くなる。あらためて、『花束みたいな恋をした』という映画を三宅の手際に照らしてみるならば、この映画の整然とした記号性は映画の瑕疵になっても新書にとっては便利な符牒として十分役割を発揮する。
ただ、あらためて本書の題は、「読書と階級闘争」でも「趣味の読書と自己啓発書」でもなく、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」である。その本論は随分遅くに「ノイズ」という概念と共に登場する。もう少し詳しく述べるなら、やはり「修養」に由来する立身出世を同機にして読まれてきた書籍たちの最新版である自己啓発書の登場共に、まるでそちらのほうが脇役であるかのように「ノイズ」という概念が自己啓発にとっての排除される敵として登場する。そこで以下では、本書の主旨である、個人が趣味の読書を維持するために社会の側に(あるいは会社の側に)半身で働くことを提案するという結論は素通りして(三宅の主張は、以上に述べた共感の理由からもちろん応援したいところだが、本書の結論に対して私は社会ではなく個人の側で、真面目に働かずに本を読んで映画ばかり見ている蒙昧な社会人として後方から声援を送るくらいしかできないのでそうしたい)、このノイズの概念のほうに詳しく迫る。
アンコントローラブルな感情のこと
「ノイズ」の概念は本書においてそもそも引用としてまず登場する。
バブルが崩壊した90年代以降、新自由主義の市場経済にまみれた「経済の時代」で、ゆとり教育の下、自分の好きなことを労働にして自己実現をすることを望まれてきた世代は、不況や戦争や社会の制度はコントロールできないからせめてそれに適合できるように自分の感情をコントロールせよと教えられてきた、らしい。現代版の自己修養において排除すべしと謳われる「読書のノイズ」とは三宅によれば以下のようなものなのだ。
前回ここに書いた話からすれば、MUBIで「知らない映画」を見る習慣がいかにもここで取り上げられているノイズと親和性があることは問題なく了解されるだろう。一方で、それを排除すべしとしている人たちは誰なのか。つまり自己啓発書を読む人たちというのは、社会に適合してビジネスというゲームのプレイヤーとなって競争社会を生きていく現代人という現代の大人の姿である、だろう。
ノイズを排除すべしというのが、社会人として、大人としてのマナーであるというならよくわかる話だ。コミュニケーションをする上で、文脈にそぐわないことをしてはいけないし、それはいけないだけでなく避けられない競争のゲームで不利にはたらく。
しかし、あらためて以下の文章を読んで私は、素直に驚いてしまう。これは読書である。余暇の時間を過ごす、知らないことを知るための時間にまさか、こんなことを言われるなんて。自己啓発書を代表して三宅に引用される前田裕二の『人生の勝算』にはこのようなことが書かれている、という。
「人を好きになることは、コントローラブル」? 本当に? この人は恋愛をしたことがないのだろうか。恋愛に限らなくても、物にしても、出来事にしても、自分の意志ではどうにもならない感情にゆさぶられて、アンコントローラブルなものに振り回されて何かに夢中になったことがないのだろうか、と取り乱してしまいそうだが。
これは、必ずしもこの書籍なり、著者なりに対して何かを思うというのではなくて、こういうことが惹句として書かれてしまう状況というか、こういう言い回しが魅力的だとみなされる文脈に、コミュニケーション空間に、そのリアリティに私は驚いた。本書には、そうした普段読まない「知らない本」に触れる貴重な機会を提供することに成功したと言えるのかもしれないけれど、だとして今、大人になった私たちのアンコントローラブルな情熱はどこに行ってしまうのか。それは肉体的な、生物的な成長の問題ではなくて、現代の人は大人になることで社会の方から、なにかに夢中になる心そのものが疎外されているということではないか。本書を読んで最後に残るのはそういう思いである。その感覚が著者に、「半身」という提案で本当にいいのかという疑問を投げかける。三宅はかつて『人生を狂わす50の名著」というタイトルの本を書いていたはずである。そのとき本は、人生をアンコントローラブルに狂わすものではなかったのか。
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