見れない映画14:論破①
「ひろゆきに論破されてみた件」のこと
いくつか読みたい記事があって、新潮の9月号を買った。
そのうちのひとつ、綿野恵太『ひろゆきに論破されてみた件』を読みながら気になることがあった。
筆者が、ネット配信の報道番組(ABEMA)の『アベマプライム』に出演し、タイトル通り、「ひろゆき」こと実業家の西村博之に「論破」された実体験から、「ひろゆきが論破する」語りそのものを分析したという論考である。綿野は、彼の著作を紐解きつつ彼の実業家としての背景まで掘り下げて著者なりのひろゆき論を展開しているのだが、気になったのはこの部分だ。以下の箇所は、ひろゆきの「論法」の具体例として登場する彼のYouTube配信での視聴者とのやりとりの抜粋である。
私などは、「まともに答えてるやん」と思ってしまう。
いや、確かにもう少し、この質問者自身が具体的にどうしたらいいかということは言った方がよいのかもしれないが、「なかなか友達ができません」という質問に対して、「友達がいること」ってそんなに大事か? というのは真っ当な返答だ、と素直に思った。
「友達がいる」ことはもちろん大事なのだろうが、「友達」などわざわざつくろうと思って作るものではないだろう。むしろ、その子が何が好きで、何が得意で、何を通じて人とコミュニケーションを取るようになれるかということが大事で、それを実践する場所は学校でも、相手は同級生でもなくて良くて、最終的にはそういうコミュニケーションの通路が自分で確保できるようになることと、勉強なり他の特技なりを駆使して、自分で環境を変える手段を獲得しながら大人になることのほうがずっと大事なはずだし、そういうのは自分で試行錯誤するものだろう。
それで、ただ単に「学校で友達ができない」という話なら、学校にいる時間くらい一人で本を読んで過ごせばいいじゃないか。友達など、好きなことをして、それから出るところに出れば勝手にできるものだ。むしろ、「仲間に入れてもらいたい」などと思うからそこに入れなくなるのではないか、と思うのだ。
しかし、綿野は、ひろゆきの回答を「えー、ぜんぜん答えになってないやん、と思った。」と一蹴する。「普通、自分の友人からこんな相談をされたら、ぼくたちはどうするか。もっと娘さんのことを聞き出そうとするはずだ。一口に「繊細」といってもいろいろある。人見知り。緊張しい。傷つきやすいのかもしれない。どういう繊細かで答えは変わってくる。」と続く。これが綿野の回答方針のようだ。
今一度、考えてみよう。綿野のように実際にこういう相談を自分がされたらどうか、想像してみる。まず、質問者が娘本人でなく親というところにひっかかる。だって、質問者に質問を聞き返しても、返ってくるのは娘がどういう人間かではなく、「その親が娘をどう思っているか」に過ぎないのだ。
じゃあ、その娘を連れて来て「君はどういうふうに繊細なのか」と聞き出して自己分析をさせるのか。的確な自己分析ができるような子どもなら、すでに友達がいるか、友達ができないとかいうことで悩まない子のどちらかだろう。「その子がどのように繊細なのか」を聞き出す一番適当な手段は、その子を友達の輪に混ぜない同級生なりなんなりを呼び出して、その子の評判を聞き出すことではないのか。そこでその子の欠点なり悪評なりを解決して、友達ができるような環境を整える……と具体的に考えれば考えるほどどんどん現実的に実行可能な手段から遠ざかる。
そもそも「友達をつくる」ということと、「解決」という理性的な手段との相性の悪さがここにある気がする。それで「なぜ友達が必要なのか」という問題に遡って問いをずらす必要がある、というのが先に私がひろゆきをまともだと思ったほうの回答例に戻る。
もう一つ考えるのは、この相談の時点で、そもそもその娘に友達ができるかどうかというのが、悩みの解決として想定されていないかもしれないという線だ。つまり、この視聴者は「自分の娘に友達がいないように見える」ことを悩んでいて、娘のことは一旦どうでもよく、この視聴者の不安に同調して寄り添うことが求められているという考えである。「確かに、娘さんに友達ができないのはちょっと不安だね。毎日通う場所なんだから、学校で過ごす時間が少しでも楽しい方がいいよね。ところで、繊細だというけど娘さんはどんな子なのかな」とでも返答する。寄り添うことで不安を不安のまま維持していく。
冷たいことを言えば、こういう不安が生じる原因は、本来、娘が悩むべき「友達ができない」という問題を、親のほうで、「自分の娘には友達ができないのではないか」という問題にすげ替えてしまうから、娘が自分の問題を自分で受け取れず、それと向き合う機会を奪われてしまうからのではないかと思うのだ。だとしたらもしかすると、相談を受けた者が「そうだね、辛いね」と言って親の方に寄り添うことで悩みぬくと、逆に相談した親のほうが先にどこかで醒めて、悩みを自分から娘のほうに手渡すのかもしれないし、そうなれば確かに相談者に寄り添うということに意味があるのかもしれない。
いずれにしても、この悩みが解決するのならそれでいいのだが、と言って私はまた「解決」のことを考えている。
私が感じた違和感に話を戻すと、私が悩みの「解決」だと思ったものに、なぜ綿野は「ぜんぜん答えになってないやん」とし、「ひろゆき」の応答を「型に当てはめて」「自分の価値観を押し付けているだけと評価したのだろうか、ということを今一度考えてみたい。綿野が想定するまともな回答を正直私ははかりかねているが、私なりにということでいくとここにあるのは「解決」と「寄り添い」の対立だと思う。私が解決策だと思うものを一蹴したときに、彼が想定してるのは文脈のすり合わせと人格の照らし合わせの必要性だ。じゃあそこで、「寄り添いって何?」とあらためて思うのだ。
「働いていると」のこと
「寄り添い」について少し遠回りをして考える。私は以前に、三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(2024)を読んだ時に、違和感を持って考えていたうまく出口の見つけられなかった疑問が一つある。
俎上にあがった映画『花束みたいな恋をした』で、菅田将暉演じる、学生の頃は①サブカルチャーの夢中で「本を読んでいた」麦が、②就職した瞬間から営業職の忙しさに追われ、自己啓発書とアプリゲームばかりに耽るサラリーマンになる様が描かれた。
私が感じた違和感というのはつまり、①と②は、映画が作劇というか寓意の都合上、全く別の人物を一人の人物かのようにまさに「都合よく」描いたのではないかというものだった。
三宅の『なぜ働いていると…』についても似た違和感を感じた。これは一読した時にはうまく出口の掴めない問いだったが「寄り添い」というテーマの中でなら今、読めるように思う。
本書では、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」というまさにその問いに答えていない。というかむしろ、明治時代の立身出世から、教養主義、自己啓発へと至る読書週間の歴史を追う記述は、あくまで近代以後の日本人には出世の手段として読書が利用されただけで、その利用価値がなくなれば風俗として読書の影が薄くなるということが見てとれる。これを真に受けると書名の問い「なぜ…読めなくなるのか」への回答は「そもそも働いている人に本は絶対に必要なわけではない」になるはずだ。
しかし、詳しくは先の記事で書いたことだが、そこから本書は「ノイズ」の話題と「働きながら本を読むために半身で働こう」という提案に後半で奇妙なジャンプを遂げる。
先の菅田将暉演じる麦に感じるのと同じ乖離をここで感じるとは、つまりこういうことである。歴史分析パートから導かれる「そもそも働いている人に本は絶対に必要なわけではない」という語りは、②のそもそも本を読む習慣のない働き手に向けられており、「本を読みながら半身で働こう」は、①の読書好きだが働き始めて以前ほどは本が読めなくなった者たちに向けられている。そのようにして「本を読む人」には「本が読めなくなる理由」を、「本を読まない人」には「本を読まなくて良い理由」を与える形で、この①と②の間にあったはずの「なぜ働きながらでも本が読みたいのか」という問いがすっぽり抜け落ちてしまうそのところで、私はこれがなんの本なのかさっぱり迷子になってしまった。
ところで、つい最近気になって読んだ別の三宅の書き物によってこの違和感が解消された。解決ではなく、そもそも彼女はそのことについて問題にしていないのではないかというふうにどうでもよくなってしまったというような感じなのだ。
三宅による映画『ラストマイル』評。
ここで「素晴らしいもの」というのを彼女にとっての読書が狭められた表現だとして『なぜ働いていると…』の構成と照合して読んでみたい。
まず「すばらしいもの(読書)」への欲望があって、それを肯定するけれど理由は掘り下げない。しかし、それを提供し、下支えするシステムへの想像がはたらいて、システムの中で働く人への「寄り添い」が述べられる。
『なぜ働いていると…』もそのように構成されているのではないか。発端は読書であるかもしれないけれど、彼女の論じる対象が労働というモチーフへとスライドし、労働者の物語を想像して寄り添う語りの中で、その人がそもそも本を読むかどうかという問題が抜け落ちていく。
私の違和感の話に戻ると、「本を読む」か「読まない」かで言えば、①と②は別の人間なのだが、「働いていて本が読めない労働者」という点では両者は同じ立場に立つ。言い換えれば、これはひとつの喩であったのかもしれない。「本が読めなくなる」のほうがシニフィアンで、「働いている」のほうがシニフィエであるというような具合に、問題は「本が読めない」ほうではなく「働いていると」のほうであったのではないか。確かにそれで、「半身」という提案はなされているのだけれど、問題提起とか、視点の転換とか、課題の解決ではなくて、「働いている」という状況への「寄り添い」がただ本書には書かれていたということであれば、腑に落ちるように思うのだ。
フィクションとしての2ちゃんねるのこと
「ひろゆきに論破されてみた件」に戻る。
先に引用した部分には違和感を持ちつつも、後半でひろゆきの経歴に迫る綿野の分析は興味深く読んだ。とりわけ、愚直に努力をしても意味がないと感じるような世の中で「努力神話」や「自己責任論」にとって代わって「要領の良さ」が求められるようになる、その風潮を体現するのが「ひろゆき」であること。少年漫画の努力神話に代わって、異世界転生の「チート」や「ハック」の価値観が流行るようになる類比。そうした例が、ロスジェネ世代のひろゆきが「社会を変えることができない無力感があるからこそ、ひろゆきのような、社会を変えられない所与のシステムとみなして、ゲームをクリアするみたいに自分が生き延びる最適な攻略法を探す現実主義者」となったという説明で裏打ちされるという流れは特に面白く読んだ。
経営者としての手腕がもちろんあってのことだろうが、自分が苦手なことである「努力」を排除したうえで、彼は自分が勝てる土台をでっちあげた。その上で「感情移入しない。文脈を踏まえない。人格を無視し、言葉だけに反応する」匿名掲示板という場所が、彼の短所に由来するプラットフォームであるという物語は、それがフィクションであれば美しいと思った。私はひろゆきの信者でもなければ、彼のほんの熱心な読者でもないし、匿名掲示板の利用者でさえないのだが、短所を条件に独自の語りを作るというのは、これに限れば、それはそれこそ文学の問題ではないか。
対して、先の三宅の『ラストマイル』評を読んでみる。彼女はシステムの中で働く労働者に寄り添い、「現実の内部にとどまって、努力を続けるしかない」と述べ、「隣の人が死なないように、なんとか気を配」れと呼びかける。「努力」というキーワードだけで「寄り添い」と「解決」の立場の違いは明白である。「寄り添い」は既存のゲームの中で「頑張れ」と応援し、「解決策」は、システムをハックして自分だけ助かる術を探せと呼びかける。
どちらが良い/悪いという話ではない。主義の違いなのだろう。三宅のほうが会社員論だとすれば、ひろゆきはフリーランス論と言えるかもしれない。(実際の雇用の問題ではない。資格や専門技能を使って複数の企業を「会社員」身分で渡り歩く実質のフリーランスもいれば、正社員になることを目指して一つの企業に奉仕する「契約社員」や「パートタイマー」もいるだろう。この論で行けば前者はフリーランス思考で、後者は会社員思考だ)前者はメンバーシップの話をしていて、後者は個人主義である。書き方も、三宅は「私たち」を多用する。後者は「私」のことしか考えていないだろう。それゆえに「友達などいなくても生きていける」というのだろう(それと実際に友達や家族がいるかいないかは別問題である)。
こういうことを考えてみたいと思ったきっかけは、実際の社会の話はどうでもよくて、文芸評論家である三宅よりもむしろひろゆきの匿名掲示板にフィクションっぽいということにとりわけ惹かれたからだ。
社会が用意した物語の外に出る。保坂和志や古谷利裕の小説を通じて私が考えていたことは、「寄り添い」よりもずっと「チート」や「ハック」による個人的な解決に近い。
というか、本当はこれを書いたきっかけはこれ、である。私はひろゆきと坂口恭平の親和性に興味がある。フィクション論として両者を読むことができるとしたらそれはどのようなものになるのか、ということはもうすこし考えてみたい。
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