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黒澤先生と楽しいフォークロア


狐者異


「ああ、いたぞ。克実君、君の足元にある網を取ってくれ」
 押入れの天井点検口に上半身を突っ込んでいる人物の尻が俺にそう言った。こっちを見ずに網を受け取ろうとする手が宙を掻く。
 はい、と俺は宙を掻いていたその手首をつかんで金属製の柄のついた網を手渡した。先生は網を天井裏に入れ、しばらくごそごそと天井裏で動いた後「よし」と呟いた。
「あの……先生?一体何がいたのですか?」
 俺の隣にいる小柄な女性が不安そうにそう訊く。
 確か先生の持つ講義の受講生──だったか。俺は先生の呼び出しに駆り出されただけだからその辺りの詳しい事情は知らなかった。ポニーテールに真っ白いブラウス、紺のハイウェストのスカートを穿いている。どこかで見たゲームのキャラクターが俺の頭に浮かんだ。
「君が怪異現象と思っていたものだよ。君の悩み相談はこれで解決したぞ」
 天井裏に片手を入れたまま、先生はこちらに顔を出した。丸縁のサングラスを着けているせいで、傍から見れば泥棒にしか見えない。ぼさぼさの髪の毛は埃を被っている。
 そう。俺とこの埃で薄汚れたカッターシャツを着た『先生』は何を隠そう、隣にいる女子学生の相談──というか依頼を受けて彼女の部屋まで来たのだ。実家暮らしの彼女の部屋の天井裏で夜な夜な奇妙な物音がしたり、台所のお菓子・パン類が減っていたりする。それをどうにかして欲しい、というのが大まかな内容だ。
「克実くん、この柄を持ってゆっくり引っ張ってくれ」
 再び天井裏に上半身を入れた先生がそう言った。はい、と俺は指示通りに降りて来た柄を掴み、ゆっくりと引っ張る。網の中で何かが暴れているのか、握っている柄が大きく振動してる。
 先生が押入れから出てきた。持ってきた網は先端の部分が取り外せるデザインらしく、網の口を縛って袋状にしている。その中にそれは入っていた。
 先生は網を持ち上げ、俺たちにそれを見せた。
 袋の中には、灰色の毛並みに目を黒く縁取っている顔、縞模様でもふもふな尻尾をした動物が入っていた。
「これが『狐者異』の正体だね」
 コワイ? 何だそれ。
「こ、これは……アライグマ、でしょうか?」
 女子学生は袋の中で暴れるそれを指してそう訊いた。
「そうだね。アライグマだ。野生化したものがこうして家の中に入ることは多い。特に最近はここら辺での目撃情報が多くなっているね。昨日も夕方のニュースで報道していたよ。この家の個体は恐らくこいつだけだから、まだ繁殖はしていないだろう。酷くなる前に捕獲できて良かった。個体によっては『人獣共通感染症』を持っている場合もあるからね。感染したら大変だ。さて、じゃあアライグマ、つまりは``特定外来生物″を捕獲したときの対処は一つだね」
 そう言って先生はシャツのポケットからガラケーを取り出し、「保健所に電話だ」と言った。
 
  先生が電話をしている最中、俺は隣の女子学生と少し話した。
「不思議な先生ね。私が相談した次の日に解決してくれた」
「そうですね。でも相当変わっていますよ。『良い人』よりも奇人・変人のカテゴリーに入ると思います」
 そう言うと、彼女は「ふっ」と笑った。
「学内で『怪人』って本人がいないところで呼ばれているわ」
 ……まあ、大方合ってるんじゃないか?「怪」しい「人」だし。
「でしょうね」
 と相槌を打つ。
「そう言えば、あなたは私と同じ大学の人?」
 と不思議そうに俺を見る。
「いえ、俺は高校生です。バイトなんですよ。あの先生の手伝いに駆り出されたり、助手的なことをさせられたりしているだけです」
「ふふ、それは大変ね。遅くなったけれど自己紹介するね。水城大学文学部2回生の赤城典子です」
 と彼女──赤城さんは俺と向かい合って軽くお辞儀をした。
「そう言えばそうでしたね。あの人、何も紹介せずに俺を連れてきましたからね。俺は高岡北高校2年の江口です。江口克実と言います」
 俺も赤城さんに倣ってお辞儀をした。
 俺が高校の名前を言ったときだろうか、赤城さんの表情がパッと明るくなった。
「北高!? 実は私の妹も北高なの! あ、でも1年生だから知らないか」
「そうなんですか! 世間って狭いですね」
 意外な接点だ。
「あと10分ほどで到着するらしい」赤城さんとの雑談が盛り上がり始めたときに、先生は電話を終えたようだった。左手でずっとアライグマの入った袋を持っていたらしく、先ほどまで元気に抵抗していたアライグマも逃走を諦めた様だ。随分と大人しくなっている。
 「外で待っているよ」
 そう言って先生はアライグマを持ったまま玄関を出た。俺と赤城さんも続いて外に出る。
 先生は玄関を数歩出た先で一服していた。
「怪音の 正体見たり アライグマって感じですかね」
「本当だよ全く。横井也有も驚きだ」
と先生はへラっと笑った。
「ヨコイヤユウ?」
「『化物の 正体みたり 枯れ尾花』を詠んだ人だよ。横井也有は江戸時代の俳人で、この句は後世になってから『化物』の部分が『幽霊』になって広く知られたんだ。怖い怖いとビクビクしていると、なんでもないただの尾花、つまりススキですら幽霊に見えてしまうって意味なんだ。怪異だと思っていたら『狐者異』になるし、正体を掴もうと挑めばこの通り。アライグマになる。まあ、私はそうなんじゃないかと大体予想はしていたよ。だから貸しのある農学部の連中から鳥類やら害獣やらを捕獲する網を借りて来たんだ」
 先生は「ふうっ」と紫煙を吐いた。
「あの……先生が先ほど仰っていた『コワイ』とは何ですか?」
 と赤城さんは先生に訊ねた。
 俺もさっきから気になっていた事だ。
「ああ、それか。狐者異は天保12年に刊行された『絵本百物語』、通称『桃山人夜話』に描かれている妖怪のことだ。狐者異は高慢、強情の又の名にして、世間でいう無分別者のことを指すんだ。生きている時は法を恐れずに平気で人のものを食べたり、盗んだりする。死後はあの世に行けず、現世に迷い、仏道や俗世間に妨げを成すといわれている。そんなわけで経典にも「自らの悪心に執着している時は仏様でもお嫌いになる」と書かれているんだ。今でも使う「こわい」の語源でもあるんだよ」
 左手にアライグマを持ったまま、先生は『狐者異』についての解りやすい説明をした。さすが本職が教授なだけはあるな、と改めて思った。この不肖め感服致しました。隣の赤城さんも、とても聞き入っている様子だった。
「一説によると、『狐者異』は夜中、勝手に台所の食料を食い漁る妖怪であるともされている。それがこいつに当てはまると思ってね。残念ながら今回はただの獣だったが」
 なるほど、そういう事だったのか。合点がいった。
「しかし、現代の狐者異がアライグマってなんだか残念ですね」
と赤城さんが呟く。
「何を言ってるんだ。得体のしれないモノよりはよっぽどマシだよ。それにね、最近は鵺の正体がレッサーパンダだったり、雷獣がハクビシンだったり、科学の力で色々と妖怪の正体が掴めてきてるんだよ」
 先生は溜息を吐き、何やら残念そうに言った。
「しかし……暑いねぇ」
 と先生は空を仰ぐ。空には入道雲があり、俺たちを見下ろしていた。蝉の声が遠く響く。本格的に夏が始まった。
 今日は7月の23日だったか。終業式からそんなに日は経っていない。夏休みの頭の1日にしては中々濃い1日を過ごした気がする。
 少しでも高校生らしい夏休みが過ごせれば良いな、と俺は溜息を吐いた。

参考文献

桃山人夜話―絵本百物語
竹原春泉
(角川ソフィア文庫)

赤頭 

1


 アライグマの一件から2日後の昼、「キャンパス内の陸上競技場に動きやすい服装で来て欲しい」との先生からの呼び出しに応じ、水城大学に来ていた。

 水城大学は俺の家から自転車で15分ぐらいの距離にある立地している。そして俺の姉が進学した大学でもある。先生は俺が近所に住んでいることを良いことに、夏休みに入ってからというもの、頻繁に雑用で俺をここに呼び出す。その度に大学の門にいる警備員さんに顔を合わせるからなのか、顔パスというか、軽い挨拶をするだけで中に入れるようにまでなってしまった。

 自転車を学生用の駐輪場の適当な場所に並べる。

 今日は先生の要望通り、家にあったスポーツ用のTシャツに学校指定の短パンジャージを着てきた。家の近くに大学があったのがこれだけは幸いだと思った。近所じゃないとこんな服装で外は恥ずかしくて歩けない。

 じりじりと照りつける日差しの下、滝のような汗を流しながら広い大学構内を進む。夏休みに入っているからなのか、見える人影はまばらだ。大学生は夏休みが二ヶ月もあると聞く。羨ましい。

 待ち合わせ時間の少し前に競技場に着いた。入り口は開放されていたが、勝手に入るのは憚られると思ったので、入り口前の日陰に入って先生を待つことにした。

 片田舎な大学だけあって、蝉の鳴き声があちこちに響いている。吸い込まれそうなほど青い空には、ソフトクリームのような真っ白な雲が浮かんでいた。風に乗せられた夏特有の青い草の匂いが鼻腔をくすぐる。

「ひょっとして江口くんかな?」

 暑さに天を仰いでいると、出し抜けに背後から名前を呼ばれた。

 振り向くと、短髪でメッシュ生地のTシャツに短パン、腕と足の筋肉がかなり引き締まった、いかにも『アスリート』という姿の男性が立っていた。線の細い顔が特徴的で、身長が俺より少し高い。 

「そうですが・・・・・・」

「ああ、やっぱり!俺はこの大学の陸上部員の月岡京助。黒澤先生から話は聞いてるよ。さあ中に入って」

 男性──月岡さんはそう言ってにっこりと人好きのする笑顔を浮かべ、俺を競技場へ招き入れた。

 月岡さんに案内されるまま、競技場内に進む。人生で初めて入る陸上競技場の中は立派な作りで、フィールド部分にはよく刈られた青い芝生、そしてトラックにはしっかりとした赤茶色のゴムのようなシートが敷かれていた(後で月岡さんに聞いたが、このゴムはタータンというらしい)。振り向くと立派な観客席まで備え付けられている。

 月岡さんによると、この競技場は学外の中学高校の運動部の練習や試合会場としても使用されているらしい。

「荷物はその辺の影に置いとくといいよ。日に当たると熱くなるからね」

「わかりました」

 月岡さんに促され、丁度観客席の真下にある日陰に、提げていたショルダーバッグを置く。

「そうだ。江口くんは何かスポーツやってたとか、経験はある?」

 月岡さんが俺に問う。

「スポーツ……はないですね。競技とかは体育の授業で取り組むくらいです」

「ないのかー。それじゃ入念に準備運動しよう。ついてきて」

「準備運動?」

 そういうと月岡さんは有無を言わせず「こっちこっち」と手招きしながらジョギングを始めた。

 急に始まったジョギングに訳のわからないままついていく。陽炎揺らめく熱いトラックを二周した後、月岡さんに教わりながらストレッチや体操を行った。

「今更なんですけど、今日は何するかまだ先生に言われてないんですよね」

 ウォームアップを終え、水分補給を取るタイミングで月岡さんに言う。

「超今更だね。体力測定とか言ってたよ」

 腕を組み、首を傾げながら月岡さんは言う。

「体力測定……」

「『体を動かす為の準備運動とか私はわからないから、君が教えてくれないか』って言われたんだよね、昨日」

「昨日……」 

 相変わらず先生の頼みは誰に対しても唐突らしい。

「何で受けたんですか?月岡さんは先生の学部なんですか?」

「いや、違うよ。俺はまた別の学部なんだ。俺の従姉が作家でね。仕事柄先生によく取材をしていて、そのお礼……借りの返却って言うのかな。まあそんなとこだよ」

「へぇ……」

 あの先生はああ見えて意外と顔が広いんだ。流石というか何というか、教授だと作家からの取材もあるんだな。

 月岡さんと話していると、呼び出しの張本人である下駄を履いた『怪人』がカラコロと足音を響かせながら競技場にぬるりと入ってきた。今日は開襟の白い半袖シャツにスラックス姿だった。いつも通り教授という威厳を感じさせない。

「やぁ、待たせたね。克実くん、月岡くん」

 もさもさの髪の毛に丸サングラスの顔が『にへり』と笑った。

「ウォームアップは終わりましたよ先生。いつでも始められます」

 月岡さんが立ち上がって言う。

「ああ、すまないね。助かるよ」

「いやいや、先生にはいつもお世話になっていますから」

「君の従姉……いや失礼、恋人によろしく伝えてくれ。彼女の書く本は面白いからね。少なからず携われる事を私としても嬉しく思っているんだ」

 そう言われると月岡さんは照れたように頭を掻きながら、「ふ、恋人だなんて……」と歯に噛んだ。照れる箇所がおかしい。

「彼女に伝えておきます」

 月岡さんは嬉しそうに軽く頭を下げた。

「もう月岡くんに頼んだ用事は終わったけど、よければこの後見て行くかい?この子は少し変わっていてね。いや、性格のことじゃないんだが、多分面白いものが見られると思うよ」

 俺を一瞥しながら先生が言う。

「先生、変なハードルを上げないでください」

「面白いもの俺も見たい!」

「月岡さんもやめてください」

2

「早速だがまずは握力の測定だ」

 そう先生から手渡された測定器はアナログの方で、早速グリップの幅の調整を行った。これは学校でも使ったことのあるものだ。

「息を吐きながら握るんだよ。ひっひっふーでね」

「出産じゃないんですよ」

 月岡さんは結構フランクな方のようで、初対面の俺との会話の端々でもちょくちょく戯けてくる。

「俺もついでにやろうかな」

「ああ、それはいいな。現役アスリートの君の記録は今回いい参考になる。ぜひやってくれ」

 横で先生が手元の記録用のクリップボードに『月岡』と書き足した。

「じゃあやりますね」

 呼吸を整え、吐き出すと同時に思いっきり右手を握る。

「39kg。まだまだだね」

「こんなもんじゃないんですか?」

 俺は月岡さんに測定器を渡す。

「行くよぉー。フンッ」

「47kg。克実君負けてるじゃないか」

 先生がボードに数字を書く。

「現役アスリートと比べないでくださいよ」

「まだまだ若人には負けんよ」

 むふふん、と笑う月岡さんから測定器を受け取る。続いて左手も測ったが右手と大差はなく、当然月岡さんに記録は負けたのだった。

「じゃあ次は立ち幅跳び」

 走り幅跳び用の砂場に移動し、先生と月岡さんが砂場にメジャーを引く。

「縁から飛べばいいんですか?」

「うん、今回は公式な記録じゃないからね。縁に足を掛けてもいいよ」

 目前のでメジャーを押さえる先生が言う。

「砂場についた足跡の踵部分を計測するから、できるだけ前傾姿勢で後ろに倒れないようにね。着地で横に逃げるのもありだよ。2回測るから」

 月岡さんが細かいアドバイスをくれた。流石アスリートだ。

「はい、では跳びます」

 大きく両腕を前後に3回ほど振り、勢いをつけて跳ぶ。なんとか後ろに手をつかないように耐え、着地した。

「2m30㎝。ど平均じゃん」

 メジャーを手にする月岡さんがふっと笑った。

「2回目は伸びますよ!! 多分! 」

「わかったわかった。じゃあやろうか」

 砂場の縁に戻る。今度はさっきより慎重にタイミングを見定め、勢いよく跳んだ。

「2m25㎝!!」

 ダメだった。

 月岡さんはというと、俺を煽るだけあって3m超えという好記録を叩き出した。これには先生も「おお」と感嘆の声を上げていた。

「次は砲丸投げ。これはちょっと難しいから、月岡君に教えてもらってくれ。練習もしてくれて構わない。出来そうになったら言ってくれ」

 先生はそう言うと観客席の日陰に戻って行った。俺たちはトラックのコーナー部分にある、サークルの方へと移動した。

「砲丸、今回は5kgのものを使うよ。投げ方は基本、回転投げと立ち投げの二種類があるんだけど、回転投げは難しいから今日は立ち投げでやるよ」

 月岡さんはそう言って砲丸を肩に担ぐ。

「野球投げは怪我の元になるから絶対にやっちゃ駄目。その辺は注意してね。じゃあまずは足を肩幅に逆ハの字に開いて、重心を移動しやすいように膝を曲げる。投げる方向に対して下半身は真横、上半身は真後ろに。で、右足の踵を爪先を軸に内から外に出すように捻る。右脚はしっかり投げる方向に向かって身体を持ち上げていき、上半身は少し遅れて起き上がる感じで。そのままの勢いのまま肩に持った砲丸を押し出す! 」 

 月岡さんの投げた砲丸は勢いよく飛び、綺麗な弧を描いて落ちた。

「投げる時は限りなくほっぺたに近づけるように。自分から球が遠くなるほどコントロールは効かなくなるから」

「わかりました」

 動きつつ解説という器用なお手本はとてもわかりやすく、的確にポイントを抑えていた。

 その甲斐もあってか、10分ほど練習すると一応は形として投げられるようになった。

 月岡さんが日陰にいる先生を呼び、計測がスタートした。

「しかし月岡君、君はなかなかに器用だね。確か君の専門は100mだろう?」

 感心したように先生がいう。

「一通りの種目は高校の時に勉強したんですよ。混合種目とか出場できればいいなと思いまして」

 そういうと月岡さんは「そうだそうだ、忘れてた」と持ってきていたショルダーバッグからティッシュケースサイズの箱を取り出した。中には真白い粉が入っている。

「これはタンマグって言って、滑り止めの粉。手汗で滑るようなら使っていいよ。この粉の中で手を握るようにして、手の平に擦るんだ」

 野球のピッチャーやロッククライマーが手につけている粉だよ、と月岡さんが言った。 

「ありがとうございます。実は汗で滑り始めてました」

 俺はタンマグを手の平に付け、砲丸を構えた。なるほど、滑りにくくなったから持ち方が安定する。

「江口君、このタンマグってね小麦粉なんだよ」

「へえ、そうなんですか!通りで少し甘い匂いがするんですね」

 驚いてそういうと、月岡さんが突然吹き出し、先生に小声で「彼信じてますぜ」と呟いた。

「ちょっと!!何ですか!?」

「タンマグってね、炭酸マグネシウムの略なんだよ!!ピュアだね!!!」

 そう言って月岡さんは腹を抱えて膝から崩れ落ちた。笑いすぎて咽せている。

「何なんですかもう!」

 騙された俺を見て笑いすぎる彼に少し腹が立った。知らなくて当然じゃないか!

「ごめんごめん、あまりにもすんなり信じるものだから面白くてね」

 涙を拭いながら月岡さんがいう。

「じゃあ始めようか。これも2回計測するね。ファールは取らないから好きに投げて」  

 二人はメジャーを準備し、計測に入った。全力で投げた砲丸は上手く力を伝えられたようで、弧を描いて落ちた。

「16m!初めてにしては結構飛んだね!かなり筋がいいよ」

 月岡さんが嬉しそうに言った。2回目もいい記録だったようで、月岡さんのテンションも上がっていた。ちなみに月岡さんの記録は17mで、やはり負けたのだった。

「じゃあ、少し休憩してくれ。次から今日の本番に入るよ」

「本番、ですか」

 月岡さんが反復する。俺もその意味を理解できずに、日陰に向かう先生の背に二人して首を傾げるのだった。

3

 果たして休憩の後に先生から出た言葉は、「直線の100mを5本全力で走れ」というもの。この言葉には月岡さんも「うへぇ」と苦い表情をした。

「やっぱりアスリートでもキツいものですかね? 」

「まあしんどいよね。普通に陸上部の練習レベルだよ」

 それは中々にキツい……。こっちは帰宅部なんですが。

「ま、5本全部走り切らなくてもいいんだ。適度に緊張と負荷をかけてアドレナリンを出すことが目的だから。これはタイムを計測しないけど、克実君は月岡君の背を追いかけることを意識してね」     

 そう言って先生はスタート位置に立ち、スターターピストルに雷管を入れた。

「これってクラウチングの方がいいですか?」

「スタンディングでもいいんじゃない?走りやすい格好なら」

 そう言って月岡さんはスタートラインの前に立った。やはり現役の陸上選手、集中しているのがひと目でわかった。静まりかえったトラックには蝉の声がよく響いている。

 俺は月岡さんから左側に1レーン開けた場所に立った。

「オンユアマーク」

 先生がそう言うと、月岡さんはスタートラインの位置にクラウチングの姿勢をとった。俺は立ったまま半身になって前傾姿勢で構える。

「セット」

 パーン!とピストルが鳴り響く。途端、月岡さんは物凄い瞬発力で前に出る。俺も負けじと一歩を踏み出したが、もう遅かった。一歩一歩と進むたびに前を走る月岡さんとの距離が恐ろしいほど開いていく。必死に追いかけたが追いつけるはずもなく、そのままゴールラインを走り抜けた。

「遅いね」

 彼は涼しい顔で「ニッ」と微笑みながら俺に話しかける。俺はというとそんな軽口に応えられる余裕などあるはずも無く、膝に手をついて息を切らしていた。額からは止め処なく汗が吹き出し、頬を伝って落ちる。

 Tシャツの裾で汗を拭う。

「歩きながら向こうに戻ろう。呼吸を整えながらね」

 月岡さんはそう言ってスタスタと歩いて戻っていった。正直、胃が上下にシャッフルされて吐く寸前だったが意地で何とか耐え、俺もスタート位置に向かった。

 2、3本目を走り終える頃にはもう立てず、ゴール地点に寝転がってしまった。月岡さんも少し息を切らしていたが、それでも「先生、もうこの子グロッキーですよ」と喋られるくらいの余裕があった。流石、勝てる気がしない。乳酸の溜まった足は鉛の入ったように重く、思うように歩けなかった。

「OKOK。じゃあ立てるようになったらもう一度さっきの計測を始めよう」

 先生はそう言って、冷えたスポーツドリンクを俺に差し出した。

「ありがとうございます」

 震える手で受け取り、それを一気に体内に流し込む。冷たい液体が食道を伝う感覚が心地よかった。

 少し経つと立ち上がれるようになり、先ほど握力を測った場所に戻った。


4

「おかえり!」

 月岡さんが手を振りながらいい笑顔で迎えてくれた。

「じゃあ戻ってきて早々だけど計測開始」

 先生は早速俺に測定器を手渡した。それを受け取り、息を整えて思いっきり握る。

 すると測定器の針は一気にメモリの端を振り切った。

「は?」

 月岡さんは目を丸くしてその様子を見ていた。先生は「計測不可」と手元のボードに書いた。

 続いて立ち幅跳び。砂場の縁に立ち、さっきのように両腕を大きく振って勢いよく跳ぶ。すると俺の体は地面から高く宙に浮き上がり、砂場に着地した。

「5m!?世界記録超えたじゃないか!!!」 

 月岡さんは自分の目を疑うように目を擦る。しかし、砂場に残された足跡ははっきりと5mの数字の横に残っている。

「次は砲丸投げだけど、多分軽すぎてかなり飛ぶと思うから」

 そういって先生が取り出したのは巻尺100mのメジャーだった。

 砲丸を持つと、先ほどよりも随分軽いように感じた。実感としてはソフトボールほどの軽さぐらい。

 野球投げは危険だと月岡さんに言われたが、俺はそのまま芝生の方に向かって砲丸を投げた。

 放たれた砲丸は高く放物線を描き、芝生の真ん中あたりに落ちた。

 先生がメジャーを引き、「50m!」と叫んだ。その様子に月岡さんは絶句していて、ただただ有り得ないものを見るような表情を浮かべている。

「ソフトボール投げじゃないんだぞ」

 月岡さんが呟いたのが聞こえた。

「じゃあ今日の測定は終了。月岡君、手伝いありがとうね」

「ち、ちょっと待ってくださいよ!説明してくださいよ!こんな……スポーツ初心者が世界記録、いやそれどころじゃない!多分人類史上初記録ですよ!そんなの出せるわけないでしょう!?」

 月岡さんはひどく興奮した様子で先生に捲し立てる。普通はこういう反応だろう。驚かないのは先生くらいだ。そっちがおかしい。

「まあその話は後日詳しく話してあげる。克実君、お疲れ様。今日はもう上がっていいよ」

 先生はそういって片付けを始めた。

 俺は納得しない表情の月岡さんに

「ありがとうございました。お疲れ様でした」と声を掛けて競技場を後にした。

5

 翌日。「昨日の件についての説明がある」と先生に言われ、再び大学に出掛けた。 
 少し出発の時間が遅れたので、家からの道のりは立ち漕ぎだ。近頃は平均気温が馬鹿みたいに高いから、自転車で家と大学を往復するだけでもかなり辛い。ましてや昨日の疲労も取れていないから余計にだ。
 蝉時雨を浴びて鼓膜が死にそう。日差しも肌に突き刺さる。暑いというか、痛い。
 駐輪場に入り、日陰になっているところに停める。気づけばTシャツの下は水を被ったかのように濡れていた。今になってタオルを忘れたことに気づく。
「あ! 克実君じゃない!?」
 出し抜けに聞き覚えのある声が俺を呼んだ。声の主を見つける。
 そこには手に小さな紙袋を持った、白いワンピース姿の見覚えのある女性が立っていた。こちらに向かって手を振っている。
「ああ、赤城さんじゃないですか。お久しぶりです」
 よくよく見ると先日のアライグマの件で知り合った赤城典子さんだ。今日はポニーテールではなく、その少し長い髪を下ろしていたので、赤城さんと分かるのに少しの間が生まれた。今日はなんだかゆるふわっとした印象で、この間の凛とした印象とのギャップが強い。
 彼女はやや駆け足気味にこちらに向かってきた。ワンピースの眩しい裾がふわりと翻る。
「こんにちは! ちょうどよかった! これから黒澤先生のところにこの前のお礼を言いに行こうと思っていたの。あれから物音はしなくなって、ぐっすり眠れるようになったわ!」
「それは良かったです」
 とても嬉しそうに赤城さんが言った。その表情に何だか俺まで嬉しくなる。徳を積んだ気分だ。
「克実くんは? キャンパスの見学?」
「いえ……俺は先生から呼ばれたので」
「そうなの? それなら丁度いいわね! 一緒に先生のところに行きましょ!」
 その誘いを断る理由は当然無く、俺と赤城さんは肩を並べて先生のいる『資料室』へと向かった。

6

 赤城さんとお互いの近況などを話しながら歩いていると、前方に数人の人集りを見つけた。揉め事だろうか? 何やら騒いでいる。

 近づくと、「どうする」「どうするって言われてもなあ」「レッカー呼ぶしかないんじゃ?」という焦りの色が見える会話が聞こえた。人だかりの真ん中を見ると、なるほど。大型のワゴン車の右側のリヤタイヤが後退のしすぎか何かで溝に嵌っている。どうやら数人で押しても動かない様子だった。

「あら大変ね」

 その様子を見て理解したのか、赤城さんが言った。

「そうですね。うん、多分あの大きさなら時間的にまだ持ち上げられるかも」

「え?」

「ちょっと待っててください」

 疑問符を頭の上に浮かべる赤城さんをよそに、人だかりの中に入っていく。

「どうかしましたか?」

 俺は丁度車の横にいる困り顔の男性に尋ねる。学生だろうか、ちらとこちらを一瞥し、溜め息まじりに話してくれた。

「ああ、ギアを入れ間違えてバックしちゃってな、そのまま見ての通り、脱輪したんだ。あと5分後には出ないといけねぇんだが……」

 男性は「はぁ……」、ともう一度落胆したように深く溜め息を吐く。

「それは時間がないですね。あの、一つ提案があるのですが」

「提案?」

「俺が車を持ち上げるので少し離れてもらってもいいですか?」

「はあ?」

 男性は俺の提案を怪訝そうな顔で聞いたが、内容を聞くなり呆れたような声を上げた。そりゃそうだ。それが当たり前の反応だ。

「君、この車の重さわかって言ってるのか?」

「時間がないのでしょう? 下がって、ほら」

 俺は周りの野次馬や関係者たちを無理やり少し下がらせ、ワゴン車のリヤバンパーの下に手を掛けた。野次馬の視線が集まる。

「いきますよ」

 よいしょ、と手先と脚に力を込め、立ち上がる。「ズボッ」とタイヤが溝から抜ける音がした。上手く持ち上がったようだ。

「左に動かしますよ」

 前輪を軸に、溝と少し距離のある場所に移動させた。

 車を下ろす。手を軽く払い、辺りを見ると、野次馬や関係者、そして車の持ち主であろう男性がすっかり静まり返っていた。皆息を呑んでいる。

「さぁ! 時間がないんでしょう!? 俺なんか見てないでとっとと出発したらどうです!?」

 と男性に声をかける。男性は「はっ」と我に帰った様子で、

「あ、ああ。ありがとう、助かった!」

 と車に乗って足速に去っていった。

 静まりかえっていた野次馬の学生たちも気を取り戻したのか、「何だあいつ」「誰だ?」「ここの学生か?見たことない顔だ」などと口々に喋っていた。まるで怪物や化物を見るような視線で俺を見る。だが俺には見慣れた光景だ。

 そして、俺は恐る恐る置いてきぼりにしてしまった赤城さんに振り向く。きっと彼女を驚かせてしまったかもしれない。

「すっごい!! き、君凄いね!! 何者なの!? 力持ちだね!」

「わっ!」

 すごい食いついてきた。考えていた予想の遥か斜め上を行く反応だった。しかし、こんな屋外で詳しい話していても埒があかない。

「ま、まずは先生のところに行きましょう! あの人が説明してくれる筈ですから」

 好奇心を抑えきれない様子の赤城さんのキラキラとした視線を受けつつ、歩くこと数分。先生のいる『資料室』に到着した。

7

『資料室』と名目しているが、正式名称は『十二番資料室』になる。『十二番』とナンバーを打たれてはいるが、ここ以外の構内に番付された資料室は存在しない。つまりこの大学において『十二番資料室』とは、この場所のみを指す。

 そもそもこの大学内でこの場所を認知している人間は少ないだろうが……。

 資料室は大学の施設でも最南端にある、鬱蒼と葛の葉に覆われた、とびきり古い3階建ての棟の奥にある部屋のことだ。そこは書籍棚が立ち並ぶ図書館のような空間で、ドア側の壁を除く三方が書籍棚で囲まれている。さらに、そこに収まりきらなかった本が床に塔を建てている状態だ。

 少し歩けば近くに新設の図書館がある。こちらにしか置いていない資料が必要になることなど、そうはないだろう。つまり、現在この資料室は誰も使わない。そして人が来ないことをいいことに、今は先生の私物と化している。私物化というか、先生がこの部屋で勝手に寝泊まりしている。普通に考えて駄目だろ。

 1階の下駄箱で備え付けのスリッパに履き替え、薄暗い廊下を奥へ奥へと進む。

 突き当たりの『十二番』と書かれた木製の引き戸をノックし、開ける。

「やあ、来たのか。思いのほか早かったね」

 先生は冷房の効いた部屋の奥側にある、書斎兼応接スペースの椅子に腰掛けて煙草を咥えている。

 その対面にある黒いソファには月岡さんが腰掛けていた。

「あ、月岡さん。こんにちは」

「や、昨日ぶり」

 意外、昨日と同じようにフランクな返事で挨拶を返された。

「おや、そちらは」

 先生と月岡さんが、俺の後ろから顔を覗かせている赤城さんに気が付いた。

「お邪魔します。先生、先日はありがとうございました」

 そういうと彼女は手に持っていた紙袋を先生に渡した。

「別に礼などよかったのに」

 そう言いつつも先生は紙袋を受け取る。

「あ、あなたは陸上部の」

 赤城さんが月岡さんを見かけるや、何か知っているような口ぶりで言った。

「月岡さんをご存知なんですか?」

「特別何を存じ上げているわけではないけれど、彼が陸上部の『星』だということは知ってい るわ」

「星だなんて……」 

 月岡さんが照れ臭そうにいう。『星』ってもしかして『スター』という意味だろうか。

「私は2回生の赤城典子と言います」

 赤城さんが丁寧にお辞儀をした。月岡さんもそれに倣ったのか立ち上がり、

「月岡京助です。同じく2回生! 何卒よしなに」

 とまるで緊張感を感じさせない洋風なお辞儀をした。

 各自の紹介を終えたところで、月岡さんの隣に二人、床に積み重ねられた本に気をつけながらソファに腰を下ろす。古本屋のような匂いがする空間で、先生が冷蔵庫からペットボトルの麦茶を2本出してくれた。俺と赤城さんはそれを受け取り、少し飲んで一息つく。

 俺は背もたれのクッションに後頭部を預けながら壁一面の本棚を見回す。『芥川龍之介全集』、『太宰治全集』、『寺山修司詩歌集』など誰でも知っている文豪たちの本から、『神仙術瞑想法』、『妖怪学講義』、『明治期怪異妖怪記事資料集成』など聞いたことのない胡乱な本までもが、バックナンバー順に整理されて並んでいる。赤城さんもその膨大な量の本たちを前に目を見張っていた。

 汗も少し引いた頃に、俺は先ほどのことを先生に話した。車の一件のことだ。その話を横で聞く月岡さんは驚いたような、それでいて疑うような、何とも言えない表情をしている。

「ふぅん。なるほどね、そんなことが。まぁ、君の事を知らない人がその力を見たら誰しもそうなるよ。うん。取り敢えずお疲れ様」

 先生は書斎机の上の窓を開け、チャッカマンで煙草に火を着ける。いやチャッカマンて。

「そういえば赤城くん、この中身は何かな」

 先生は紙袋を指にかけながら訊く。

「ゴディバのチョコレートです。先生と奥様で召し上がってください」

「え!?」

 その一言に月岡さんと俺が揃えて驚愕の声を上げた。

「ゴディバだって!?」

「そっちじゃないです」

 そう、突っ込むべき箇所はそこじゃない。先生に奥さんが、先生が既婚者だったなんて知らなかった。信じられない。マジ?

「せ、先生って結婚されてたんですか?」

「いや、してないが」

 さらりと否定された。えー。

「で、でも先生がとっても色白くて美人な外国人の方と、仲良さそうに一緒に車に乗っているのをたまに学内で見かけますよ?」

 赤城さんは尚も食い下がらない。成る程、赤城さん自身が見たことがあるのか。

「ああ、わかった。違う違う、彼女は私の家に住んでいるってだけだよ。彼女も私の研究に参加してもらっていてね。克実くんと同じで」

 それでも同棲じゃないですか、とは思ったが、先生の寝床はここだった。

 いやそうじゃなくて。先生の最後の言葉に引っかかった。そうか、俺と同じ。ということは–––

「では先生、その方も何か特別な力を?」

 俺が問うと、先生は紫煙を吐きながら首を横に振る。

「いや、彼女の場合はそうではないんだ。そうではないが、ある国や地域では尋常ならざる程の特別視をされる人種だ。君とはいずれ会うことになるだろうから、またその時に話してあげるよ」

 その口ぶりから察するに、その方もどうやら俺と同じ「人間視されない人間」なのだろう。何となく親近感が湧いた。是非会ってみたい。

 先生は書斎机にある銀の灰皿にぐりぐりと煙草を押し付けた。

「あの、先生!」

 と赤城さんが挙手する。ついに彼女の疑問が爆発したらしい。

「克実くんのこの力は何なのでしょうか」

「そうだったそれを聞きに来たんだった」

 月岡さんも横で遅れて挙手した。それに対して先生は持ち前のもさもさ頭を掻き回し、「うーむ」と唸る。

「そうだな。赤城くん、君は確か文学部だったね」

「はい」

「ならウブメを知っているかな」

 ウブメ? どこかで聞いたことがあるな。何だろう。

「えっと、子供を抱かせる女の妖怪だったと記憶してます」

「そうだね。認識としては間違ってはいない。新潟県ではウブ、佐賀県ではウグメなどと地域によって様々な名前で呼ばれている。今は一般的な、小説などで広く知られている呼び名であるウブメで統一しておこう。ウブメ、『産む女』と書く。下半身が血に塗れた女性の姿で描かれることが多い。産女は雨の降る夜に寂しい橋のたもとや四辻に現れ、そこを通過する人々に自分の子供を抱かせる。抱いた後に赤子は段々と重くなり、その荷重に耐えることができればその礼に怪力や宝玉、名刀などが授けられるという」

「あ、聞いたことあるわ」

 月岡さんが呟く。彼はスポーツ以外にも何かと詳しいらしい。右横の赤城さんは「ふむふむ」と頷きながら前のめりに話を聞いている。その目はさながら好きな昆虫を見つけた時の少年のように爛々と光っていた。

 先生が続ける。

「だが実際に産女などという民間伝承は実在しない。あれは『生きて自分の子供に対面できなかった女の無念』という概念を形にしただけのものだからだ。では何故私が今『産女』について話したかというと、この昔話の『怪力譚』という部分が克実くんの力の事と符号するからだ」

「いよいよ本題」

 とても嬉しそうな表情で赤城さんが俺を見る。先生の授業が始まった。

8

「産女の怪力譚は日本各地に伝わる。北は秋田から南は長崎と広くね。怪力を与えられた人物は武士や力士と多岐に渡るが、その内容はほとんど同じだ。先ほど話した『預けられた赤子の重さに耐え、大力を与えられた』というもの」

「はい」

「だが一説、それと異なる話がある。島原半島に伝わる話だ。異なる点は2つ。まず、産女に出会って怪力を授かったのが女性である点。そしてもう一つ、大抵の伝説において怪力は授かった当代のみの能力だが、その怪力が女性の代のみに遺伝するという点だ」

 先生は指をピースするように順番に2本立てる。

「私はこの『遺伝する』という点に興味と疑問を持った。もしかするとこの怪力というモノは異能の力ではなく、体質的なものではないかとね」

「つまり科学的に証明できるかもしれない、ということですか?」

 月岡さんが問うと、「そうだ」と先生が頷いた。

「『因伯伝説集』という本にこんな話がある。昔、鳥取県の名和村というところに、赤頭と呼ばれる力自慢の男がいた。米俵を一度に12俵、1俵が60kgだから相当な重さだね、それを梯子の上に乗せて運ぶほどの怪力を持っていたという。ある時その男が観音堂で一休みしていると、どこからともなく4、5歳ぐらいの小僧が現れ、いきなり堂の柱に五寸釘を素手で刺し始めた。そうかと見ているとそれを今度は素手で抜き、再び刺すという遊びを始めた。よく見るとそれを指一本でやってのけている」

「うへぇ、素手で胡桃割るジャッキー・チェンよりすげえな」

 月岡さんが感心したようにいう。それに同調するかのように赤城さんも頷く。なぜ2人ともジャッキー基準なのか。

「赤頭も小僧に負けじと同じことにトライするが、両手で刺すことがやっとな上に、柱から抜くことなど到底できなかった。小僧はこの様子を見て笑いながら何処へか去ってしまった。怪力自慢にさえできないことをやってのける怪しい子供。私はこの子供も島原の伝説と同様に現代科学を持ってすれば説明できるのではと考える」

 長い説明に一息つくと、先生は月岡さんの方に向く。

「ところで月岡くん。君の専攻は何だったかな」

「俺は運動生理学とスポーツ科学ですね。それが、何か?」

「ミオスタチン関連筋肉肥大という病気のことを聞いたことがあるだろうか」

 その言葉を聞くや、月岡さんは「ああ!」と何か合点がいったのか、パズルのピースが繋がったかのような声を上げた。知ってますか?と赤城さんに目配せすると、彼女は首を横に振った。どうやら専門的なものらしい。

 その様子を見ていた彼は「おっほん」とわざとらしく咳払いをし、こちらに向き直る。

「ミオスタチン関連筋肉肥大、ミオスタチン欠乏症ともいうんだけど、これはね、筋肉の発達を抑制するミオスタチンというタンパク質の一種が極端に機能していない体質のことなんだよ。ミオスタチンは骨格筋という、普段俺たちが使っている筋肉の増殖を適度に抑える要素のことで、これによって我々動物は適度な筋肉の成長を保っているんだ」

「むんっ」と月岡さんは力こぶを作り、それを指差して説明する。

「だけど、この要素が働かなくなるとどうなると思う? 江口くん」

「どうなる……そうですね。それが身体にないのなら、ずっと筋肉が成長し続ける……とかではないでしょうか?」

「その通り! ブレーキが効かなくなり、どんどんマッチョになっていくんだよ。そのわかりやすい一例として、ベルギーのナミュレール州という地方では『べルジャンブルー』という、普通の牛より筋肉が2倍も付いている食肉用の牛がいるんだけど」

 月岡さんはそういってスマホを取り出し、何かを検索する。やがて出てきたその画面を俺たちに見せた。先生も気になるのか、画面を覗き込んでいる。

「これは……」

「すごいな」

「ええ……」

 各々が驚嘆の声を出す。

 画面に映し出されたそれは、身体中の筋肉が以上なほど隆々とした、まるでボディビルダーのような牛の写真だった。

「『マッチョ牛』って調べれば出てくるよ。特別な遺伝子組み替えやゲノム編集をしたわけじゃなくて、通常の品種の交配から突然変異した個体が生まれたのがきっかけなんだ。ベルギーで生産されている牛の9割がベルジャンブルーの血統らしい。脂身が少なく赤身肉の量が通常の倍近くあって、柔らかくて美味しいんだってさ!」

 月岡さんが役目を終えたスマホをポケットに直した。いくら美味しいといってもこんな、ある意味グロテスクな姿の牛を見てしまっては食欲が失せてしまう。

「さらに、このミオスタチン欠乏症の特徴として、筋肉の成長が猛スピードなために摂取したカロリーのほとんどが筋肉に費やされるという事がある。代謝が良すぎて体脂肪がほぼ蓄積されないんだ。ベルジャンブルーに余分な脂身が少ないという理由だね」

「それって原因はあるの?」

 赤城さんが問う。

「原因はミオスタチン遺伝子の突然変異と言われているよ」

「突然変異」

 赤城さんが反芻する。

「実は同じ欠乏症でも2つのタイプがある。体内で生成されたミオスタチンを筋細胞が受け付けないタイプと、そもそもミオスタチンの生成が極端に少ないというタイプ。前者の筋肉量は常人の1.5倍、後者は常人の2倍に達するといわれているよ。筋密度も人より高いわけだから、無論、体重も平均よりさらに重くなるね」

「克実くんはどっちだろうね」

 先生が言う。

「どうでしょうね、検査とかしたことないので」

 と俺は肩をすくめた。

「以上がミオスタチン関連筋肉肥大の説明になりますが……」

 月岡さんがそう言いながら俺たちを見回した。俺と赤城さんは「おぉー」と揃って拍手した。正直、月岡さんがここまでの説明をしてくれると思っていなかった。

「なかなかに分かり易い説明ありがとう。やっぱり『星』と言われるだけはあるね」

「その『星』ってなんなんですか?」

 俺は先生に問うた。

「彼は今聞いたように、人体のことなどについて幅広い知識を持っていてね。そしてそれをこの大学の陸上部のコーチングやトレーニングに活かし、記録が伸び悩んでいたチーム全体の成績を大きく伸ばしたうえに全国的な大会にまで導いたんだ。勿論、昨日君が見たように彼自身が優れた選手でもあるから、『期待の星』『新星』『スター』という意味を込めて彼のことを『星』と呼んでいるんだ」

「いやぁ、何度言われても慣れないっすね」

 月岡さんがはにかむ。

「別にチームがどうこう、学校の名声が云々で行動したわけじゃないんです。陸上競技は個人競技ですからね。ただ、高校時代に杜撰な顧問のせいで怪我をして、競技ができなくなった部員がいたことがありまして。そんな経験をもう繰り返したくなかったから部のサポートとマネジメントに徹してみたってだけですよ」

 その高校時代を思い出しているのか、過去を懐かしむような遠い目で彼は言った。

9

「さて、では本題に戻ろう。先ほど月岡くんが説明してくれたミオスタチン関連筋肉肥大が赤頭の出会った怪力小僧の力の正体だと私は考えた。この現代においても、4、5歳くらいの時期で同じように怪力を出現させた少女が存在するからだ。1992年にウクライナで生まれた少女は4歳にして100kgを持ち上げたらしい。この娘は特別に負荷の高いトレーニングをしていたわけじゃない。それなのに12歳になる頃には140kgのバーベルを上げられるようになったという。彼女もまたミオスタチン欠乏症だったという。この話でいくと、木製の柱に五寸釘を抜き刺しすることなど容易いと思える」

「なるほど」

「つまり、最初の話に戻るが──島原半島の女性の代のみに遺伝する怪力、五寸釘を素手で柱に刺す怪力小僧、また『今昔物語集』に伝わる尾張国中島郡の大領・久坂利の妻が成人男性を指2本で摘み上げたという異常な腕力の話も、その殆どがオカルティックな異能ではなく、多少の脚色はあったとしても、このミオスタチン関連筋肉肥大で説明できると考えた。では、なぜ怪力を授かるきっかけに妖怪の存在があったのか。それは、現代の様に科学が発達していない時代という理由が関係する。一つ間違えれば怪力などというモノは恐怖の対象にしかならないからだ。特異な彼らは産女や山姥といった『怪力を授ける』怪異という存在を、自らの出生の理由や能力を授かった切っ掛けとして利用することで、己の力の正当化を図ったのではあるまいか」

 先生はそういうとまた煙草を取り出す。

「勿論、怪力剛力の話を全てミオスタチン欠乏症だとは言わない。本人の弛まぬ鍛錬の成果もあるだろうからね」

 チャッカマンで火を着ける。甘いような苦いような、不思議な匂いが部屋に充満する。

 依然、俺たちはその講義に耳を傾けていたが、鳴り出した先生のガラケーによって先生が自宅に呼び出されたのを区切りに、今日は解散する運びとなった。

10

「結局先生は最後までは言い切らなかったけど、つまり君はミオスタチン関連筋肉肥大の体質……という見解になるんだね」

「そういうことらしいですね」

 月岡さんが「門まで送るよ」と言い出したので、俺たち3人は資料室を後に、日差しを避けるように構内を歩いていた。

「でも昨日測った握力や瞬発力が平均並みだったのが不思議だね」

「測ったの?」

 右隣を歩く赤城さんが問う。

「そうなんですよ。握力とか立ち幅跳びとか砲丸投げまでやらされました。終いには月岡さんと、立ち上がれなくなるまで走らされて」

「走ったね」

 ふふ、と月岡さんが楽しそうに笑う。

「そう、あの測定を見て俺が思うに、君のその力、普段はリミッターが掛かっている状態だと思う。恐らく、無意識の心理的限界によって。だけど、それが何かしらの刺激によって解除される場合に限り、怪力が発揮されるんだろう。俺はそれがアドレナリンの分泌量と関係するんじゃないかと思うんだ」

「アドレナリンが?」

「そう。極度の興奮状態、疲労状態の時に脳内麻薬としてアドレナリンは分泌される。昨日走った時のようにね。多分先生もその事に薄々気が付いていて、確証を得るために体力測定という名目で実験をしたんだと思うよ」

「ああ、なるほど」

 てっきりこの力は、走ったり、少し疲れる運動をした時に限って出現するものだと思っていた。現に今日はここまで来るのに自転車を急ぎめに漕いで来た。だからあの時車を持ち上げられると思ったのだ。

 よく考えると確かに、興奮状態と疲労状態だ。

「納得できる経験があった?」

「ありましたね」

 さすが星だ。改めてすごいと思う。

「あ、私はここで失礼するわ。部活に顔を出す予定なの。克実くん、またね」

 丁度大きい校舎の前に差し掛かった時、赤城さんがそういった。俺たち2人は小走りに屋内へ去って行く赤城さんの背に手を振って見送る。

「あ、俺も近くに来た従姉の買い物に付き合う約束なんだった」

 不意にメッセージアプリの通知が鳴り、スマホを見た月岡さんがそう言った。結局門まで行かず、俺たちはここでお別れすることになった。

「昨日と今日と、ありがとうございました」

「いやいや、楽しかったし、俺も先生の貴重な話を聞けてよかったよ」

 不意にポケットを漁る月岡さんから、紙の端切れを手渡される。

「俺のケー番。何かあったらいつでも相談してね。そうそう、君も陸上やらない?江口くんならメダルは容易いよ」

「うーん、遠慮しておきます」

 恵まれた肉体といわれればそうかもしれないが、生憎そこまでスポーツが好きなわけじゃない。目立つのも。

 それにしても連絡先として渡すのがケー番……。メッセージアプリのIDじゃないんだ。つくづく変わってるなぁ。

「そうかい、残念!じゃ!」

 意外と諦めが早かった。「あと、俺のことは月岡さんじゃなくて、京助って呼んでくれていいよ。苗字、言いにくいからね! 俺も克実くんって呼ぶからさ」彼はそう言い残し、その俊足で駆けて行った。

 残された俺はふらふらと歩みながら駐輪場まで歩く。蝉時雨は依然どしゃ降りで、身体はたちまち頭から水をかけたように汗に濡れた。一歩、また一歩と進むほどに体温が上がる。

 自分の体質に関する長年の謎が解明されたからか、不思議と胸が軽い。どことなく心の奥底に溜まっていた、重油みたいなものがなくなったからだろうか。この暑さで憎らしかった青空が、今はとても愛おしい。

 自転車を出し、跨る。

「先生に振り回される刺激的な日々も悪くない」

 そう思い始めた自分がいる事に気付いた。夏はまだ長い。ゆっくりやっていこう。

参考文献

『因伯伝説集』 荻原 直正 (牧野出版社)
 
『骨格筋肥大と萎縮におけるミオスタチンの役割』 川田茂雄

『決定版 日本妖怪大全 妖怪・あの世・神様』 水木しげる (講談社文庫)

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