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決めたあとに訪れるもの

ロバート・キャパの『ちょっとピンぼけ』という本がある。
1936年、スペイン内戦で撮った「崩れ落ちる兵士」で一躍有名になった、ハンガリー出身の写真家キャパの手記である。

「崩れ落ちる兵士」


この一年くらい、「決める」を朝の日課にしている。

「どんな気分で一日を終えたいか」
「〇〇(たとえば歯医者)が終わった後、どんな気分で在りたいか」
「一週間のテーマ」
「どんな一ヶ月にするか」
「今年の大晦日、どんな気持ちでいたい」

決めたとおりの気分になっていることもあるし、ハプニングに見舞われて予定そのものがなくなり、「決めたこと」から大幅に逸れているときもある。
決めたあとに振りかえる”答えあわせ”も、たのしい作業だ。

「決めたから叶う」はこの一年の標語になっていたが、自分の内の羅針盤がさだまることで、叶えるよう行動が変わってくる。
自動詞「叶う」が、他動詞「叶える」に変わっていく。


わたしはこれまで、「決めたこと」が叶ったかどうかしか見ていなかった。
「決めたこと」に沿って自分が動けたのか。
「決めた感情」を日頃どのくらい意識していたのか。
もっと時間が欲しかったのか。もっとこの気分を味わっていたいのか。

こういった確認作業に、わたしはたいてい紙のノートを使っている。
「書く」というのは、わたしにとって採掘のプロセスでもある。
最近あらためてそう感じた。
感情を掘って己にふかくふかく潜ってゆく。
ひとつの出来事や、決めたことの周りをなぞるだけでは辿り着けない境地がある。

日常で、現実に対峙する肉体をもった自分と、その自分を背面から見つめているもうひとりの自分がいる。
当事者と証人のような関係だと思っていたが、公園で遊ぶ子をベンチで見守る親によく似ているかもしれない。

書くときは、さらにもうひとりの自分が現れる。
真っ暗闇のなか、スクリーンに映った二人を検証するのだ。
エピソードのライブ感やスリリングさは、書いているうちに失われてしまう。茶々を入れたり感情を織り交ぜて書くことが不得手と知ったのはごく最近だ。


自分を掘り起こしていくと、泉を見つけることがある。
草しかないと思っていた場所に、いつまでも留まっていたくなるような静謐な空間が突然あらわれる。
その水に、感情をそっとひたす。
それまで重い塊だったそれが、しずかにほどけてゆく。そのときはじめて
「これでいいのだ」
と納得する。
現実にどう反応したか、そのあと何年も持ち続けている感情、そしてそれを一定の距離をあけて目撃していた自分。どの自分も受け容れられる。
身体は軽くなり、『天空の城ラピュタ』でペンダントを身につけた女の子が浮いたように、許しを得てわたしも宙をたゆたうことができる。

この「許し」は、決めたことのもっともっと先にあるものだ。
どうにかして手に入れようともがくものではなく、ふと訪れる質(たち)のもの。
まさに「ちょっとピンぼけ」なのだ。写真家キャパの意図とはちょっと外れるかもしれぬが。
ほんのわずかだが焦点とはズレたところで見つかって、いちばん最初に欲していたものではないけれど、そのわきに落ちているもの。
手にした瞬間に大事と理屈でなくわかるもの。

どういうわけか、この感覚はわたしの場合書くことでしか得られない。
むしろ、それが分かっているからこそ書くのだと思う。
受容は書くことの副作用なのだ。約束されているわけではないが、ときに現れるもの。タイトルの写真は、最近読んでいる本(右)と、表紙に惹かれて買ってしまった本(左)。
まさに一陽来復、陰極まりて陽となす。




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