子どもの性(さが)

毎晩9時前には子どもと布団に入る。「今日たのしかったこと3つ」を子ども、私の順番に発表する。それから子どもが選んだひらがな一文字でおしゃべりをする。

昨晩は「と」を選んだので、「と」がつく単語やキャラクターを順番に言い合った。「ぎゅーする」と子どもが言ったら、そろそろ眠りにつく合図だ。子どもをぎゅっと抱きしめても、すぐには眠りにつかない。しばらく宙を見ている。その眼差しが0歳児のときの表情とよく似ており、私はその顔をこっそり窺うのが好きだ。


この一週間、子どもの鼻水がつづいている。寝ているあいだは姿勢が水平になるので呼吸がしづらいのか、咳き込んで目を覚ます。子どもが再び寝つくまで背中をさする。子ども以上に私の眠りが浅い。「寝不足が溜まると人格が崩壊する」とはよく言ったもので、昨日もぎゅっと抱きしめた後は「はよ寝てくれ」と半ば投げやりな気持ちで子どもの髪の毛を撫ぜていた。

天井の方をぼんやり見上げていた子どもの目が、私の方に向いた。「あぁ、まだ寝そうにない」と私が天を仰ぎそうになったその時、子どもの手が私の前髪をゆっくりと撫でた。明日の朝食の算段も、深夜の咳も、何の憂いも計画もなかった。時間も空間も手放していた。全細胞で私を見て、全神経が私の髪を撫でることに向いていた。こんなふうに、一個の人間がまるごと自分だけに向いた瞬間がこれまであっただろうか。


子どもは普段からよく私を真似る。

くまのぬいぐるみ相手に「ひとりで待てますか?」と半ば高圧的に尋ねているのも、「おうちのおしごとしまーす」と窓ガラスをウェットティッシュで磨くのも、リモコンを電話に見立てて「はい、そうですー、もうしわけないですー」と頭を下げながら話すのも、全部私を真似ている。

だから髪の毛を撫でるのも、私を真似たつもりなのだろう。でも私をコピーしたようでいて、子どものそれはまったく別のものだった。全身全霊のそれだった。

「子どもは純粋だ」という価値観には首を傾げていたけれど、時間軸と空間軸をもたぬという意味なら分かる。「ただ、今に在る」ことにかけては子どもは天才なのだと。


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