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第4話 zineというメディア

 ルー・バーロウをフォーク・インプロージョンとして招聘したときのこと。帰りの成田行きの空港バスを待つために、渋谷のエクセルホテル東急のカフェでしんみりとツアーを思い返していました。
 「渋谷のこのあたりは大きなビルばかりだね」とそこから見えるインフォスタワーを指し示すルー。「あそこにはね、日本で最も有名な音楽誌「ROCKIN' ON」の編集部があるんだよ」と答える自分。「じゃ、次は君らの編集部があのビルに入る番だね」「いや、僕らはそんな風にはなれないし、ならないよ」と笑う。
 その数年後、僕は渋谷のインフォスタワーがそびえ立つ桜ヶ丘の坂の下、鶯谷町に小さなヴィーガンの食堂を始めたのです。

ヴィーガンレストランと編集者の二足の鞋

 それまで海外アーティストの招聘を何度も行なっていた僕らの懸念のひとつが、アーティストたちの多くが、ベジタリアン、もしくはヴィーガンだったということ。今でさえ「ヴィーガン」という言葉が、多くの誤解を孕みながらも一般用語になりつつありますが、2007年の時点では、ほとんどの方が知らなかったくらい、日本ではベジやヴィーガンが安心して食事ができる場所がなかったのです。たとえあったとしても、オーガニックや玄米菜食がベースになっていて、若干、いや結構高いレストランしか存在しませんでした。それゆえに、日本各地をツアーするときに、食事の面でアテンドすることが大変だったのも事実。「世の中にないんだったらやればいい!」ということで、僕は古くからのバンド仲間の中井敏文、編集者時代の友人である北口大介と共に、なぎ食堂という「低価格で、お酒もガンガン飲めるヴィーガン食堂」を作ったのです。このあたりの話に関しては、拙著『渋谷のすみっこでベジ食堂』に細かく書いています。

 なぎ食堂をはじめ料理人を生活の糧にした時点で、編集者をやめたと思われていますが、まったくやめていません。それどころか、なぎ食堂を始めるほぼ同時期に『Songs in the Key of Z』というダニエル・ジョンストンやシャグス、キャプテン・ビーフハートやタイニー・ティム、ザ・レジェンダリー・スターダスト・カウボーイ……といったアウトサイダー・ミュージックについての翻訳本を刊行しているのです。こちらの書籍、今、amazonで見たら中古で10,000円超えになっていますが、普通に新品帯付きでまだまだ在庫がありますので、もしご興味があればこちらにご連絡ください。販売します(笑)。


『Songs in the Key of Z』の呪縛

 この書籍は、mapとして刊行していますが、元々はその予定ではなく、別の出版社から刊行されるはずのものでした。
 2000年ごろ、アメリカでオリジナルがリリースされて、即、知り合いの出版社へ「編集を手伝うので翻訳本を出しませんか?」と打診。日本での出版契約を結んでいただいて2002年には刊行される予定でした。翻訳を喜多村純さんにお願いし、編集者として文章を整えて校正を順次やっていき、ほぼほぼ進んだころに間にいた編集者から「出版社自体が潰れるかも。自分も辞める予定」との情報を受け、話はペンディングに。では別の出版社で、ということで話を進めていたのですが、調査してみたら前の出版社との契約があるから無理、ということでお蔵入りになってしまったのです。
 既に翻訳も編集も進んでいるのになんで、と諦めきれない日々。また「契約上、数年発行されなければ無効になるかもしれない」との噂もあって、数年後エージェントに再調査していただけないか、と相談してみたところ、当初から契約自体何も行なわれていなかったという衝撃の事実が発覚! 自分たちの数年間はなんだったのか? もう、どの出版社も業界の誰も信用できなくなって、「いいです。それだったら自分たちで出版します」と宣言したのです。
 本来は法人でなければエージェントも出版契約が難しいところを過去の出版物をいくつか見せてなんとか説得。また、著者印税(たしか著者8%+エージェント手数料)や翻訳料(3.5%程度)、そして印刷費(2,500冊の上製本2,500冊で70万円超だったと思います)で160〜170万くらい必要だった記憶があります。もちろん、そんな現金が手元にあるわけもなく、契約が締結された翌日、300万をお借りしたいと書類を揃えて国民金融公庫に足を運びました。実際には180万ほどしか借りられなかったのですが、それでも十分、翻訳本を完全自費で出版することができたのでした。
 この本は、世界唯一のアウトサイダー・ミュージック読本という内容も相まって、15年経った今読んでもまったく色褪せない素晴らしい書籍だと自負しています。ただ、出版の前年に子供が生まれ、なぎ食堂もスタートしたこともあって、しっかりと宣伝、営業活動ができなかったことが本当に悔やまれます。また、取次も音楽系の流通網のみを使ったため一般書店にあまり置かれることもなく、加えて意図的にamazonでの直接販売を放棄したことによって、15年経った今も倉庫に300冊ほど在庫を残しています。ただ、有り難いことにさまざまな小店舗の本屋がこの本をプッシュしてくれて、店頭在庫を鑑みても、この手の本が1,500冊以上は売れたのではないかと思います。もちろん、自分の店舗であるなぎ食堂だけでも、この本は数年通してですが100冊は売れたんじゃないかと思います。自分の売り場所がある、ということが非常に大きいことを知りました。


Lilmag、Team Kathyとの出会い

 そんななぎ食堂には、オープンの時点から入り口のところにひとつの小さなコーナーがありました。それは、ライター/翻訳家として活動し、『ZINE〜小さなわたしのメディアを作る』の作者としても知られる野中モモさんによるZINEのネットショップ「Lilmag」の出張本棚でした。
 モモさんとは、自分たちがリリースしてるバンド「かえる目」を介して知り合いました。現在、早稲田大学の教授として、そして思索家として知られる細馬宏通さんですが、氏の宴会芸の鼻歌みたいなものに「このメンバーでバンドをやってください!」とイギリスから遠隔プロデュースしたのが、野中モモさんだったことはあまり知られていません。そんな彼女が、LilmagというZINEのネットショップをちょうどスタートしたところ、でもやっぱりZINEって実際に触って、その質感も含めて感じてもらわなくちゃ分からんよね、じゃ、本棚ひとつ置いてみる? 大丈夫? お願い! という安易な考えでこの棚を設置してもらったのです。また、ヴィーガンの店とZINEといえばD.I.Y.マナーでつながる感じもあったし、完全なる飲食店で働いていたとしても、自分が本作りに関わっている、という部分をどこか繋げていたい気持ちもあったんだと思います。
 もちろん、モモさんと知り合うずっと以前からファンジン〜ZINEへの興味は強くあったものの、ZINEとは「自分の中にある衝動のようなものを暴発させるメディア」と捉えていて、すべての幼児が描き出す無垢な作品のようなもの、若さゆえの衝動の塊のようなものであり、たかだか数年ですがプロフェッショナルとして本を作ってきたオッサンが作れるようなものではないと考えていました。また、お恥ずかしながら、編集者として変なプライドみたいなものもあったのかもしれません。ただ、モモさんが「こんなの入ったよー」と教えてくれるさまざまなタイプのZINE……それは本当にコピー用紙一枚に手書きで走り書きされたようなものから、ライオット・ガール的思索を自分なりに煮詰めたようなもの、緻密な考察を元にしながらヤンチャに仕立て上げられたもの、もちろん丁寧に編集されてくるみ製本されたようなアートブックまで……をずっと見ていくうちに、「ちょっと頭固くなってた。あ、これだったら作れるかもしれない!」と思うようになっていったのを覚えています。また、そんな「ZINEとはこうであるべき!」という感覚こそが、ZINEカルチャーとは遠い場所にいるのだということをこの場所で再確認させてもらったものです。
 そんな中でも最も刺激を受けたのが、チーム・キャシーという名義でZINEを作っていた三人組でした。DIRTYさん、そのパートナーでもあるミャーザキくん、なぎ食堂の最初のスタッフの1人でもあったデザイナーのバニーくんによるこのチームが作り出すZINEは、USパンク系ファンジンの強い影響を受けた衝動感としっかりとした批評性も備えつつ、どことなくもっちゃりとした凸凹感もあって……それは彼らの人柄だということが後で分かるのですが……とにかくこれまでの日本のジンスタとは一線を画すものでした。その後DIRTYさんとミャーザキくんは、静岡の三島に戻り、DIRTYさんはCRY IN PUBLICというフリースペースの運営者の1人となり、西山敦子として数々の翻訳を行なっています。またバニーくんはデザイナーとしてPOPEYEを始めとする装丁を手掛けるようになるのですが、彼らのスタート地点でもあるこの「Kathy Zine」は、15年以上経った今も自分の憧れなのです。個人的には、今のミャーザキくんの言葉を読みたいのですが、どこかに書いてたりしないのかしらん。情報求む、です。
 あと、当時ではLilmagでオープン時からずっと売れ続けていた大垣有香さんの『riot grrrlというムーブメント-「自分らしさ」のポリティックス』や池田弥生さんの『Catch that Beat!』といったZINEにも感動。そのずっと前からレコード屋やライブハウスで知り合っていたあの普通の面白い子たちが、こんな素晴らしいものを形にしていた、ということに何よりも驚かされたのです。
 作家でも編集者でもない、でも、心にいろんなものを貯め込んだ人たち、何かを必死で想い続ける人たちが形にするメディアがこんなに素敵だということを知ったのです。


ZINE元年?

 なぎ食堂のオープンが2007年、そしてその年の夏にはLilmagがスタートしていたような記憶があるので、たぶんそこが日本におけるZINEカルチャーの元年だったのかもしれません。そういう時期にほんの少しだけでも関われたことはひとつの幸せでした。もちろん、池袋のポポタムはそのもうちょっと前、新宿のIrregular Rhythm Asylumは2004年、中野のタコシェは1995年、いや新宿の模索舎に至っては、自分が東京に住む前に行った記憶があるからもうずっと以前からあるのは分かってるのだけれど、まぁZINEって言葉の広がりから考えると、2007年ごろからじんわりと僕らの周りにも伝わっていったのではないか、と。その後、2009年には、ユトレヒトが国内初のアートブックフェア「ZINE's MATE」を開催、それがTOKYO ART BOOK FAIRへと形を変えていくのですが、正直、自分にとってはどこか違和感を感じたこともあって、あまり近づかないようにしていた気がします。もちろんそれ以上に、なぎ食堂での料理作りと子育てが忙しくなり過ぎて、編集の仕事どころか、ライブを見に行ったりレコードを買ったりする機会さえどんどん減っていったのがこのころです。
 しかし、モモさんやチーム・キャシーと知り合うことで、有り難いことにこちらが店でぼんやりとしているときでも、自然にいろんなZINEや海外の情報が入ってくるようになっていました。そして、海外から届けられたZINEを手に取って見ると、かつてのゼロックス・コピーで煩雑に仕立てあげたもの(それはもちろん最高に素敵だ!)以外に、時折カラーコピーとはちょっと異なる質感、でも原色のカラー印刷されたZINEが姿を現すようになります。「あれ、これ何だ?」と思って調べてみたら、2000年代初頭から、三軒茶屋のキャロットタワー内にある印刷室やボランティアセンター、杉並の公民館において、自分たちがイベントのフライヤー印刷によく使っていた簡易印刷機、リソグラフを用いていることがようやく判明。たしかに、あの機械、ほとんど黒のみだったけれど、三茶のクリエイティヴセンターみたいなところにある機械は、二色刷りで赤とか青とか使えたはず。というか、海外にリソグラフってあったんだ、と検索をかけまくっていたのが2010年前後だったか。確か震災前にいろいろ気にしていた記憶が。もちろん、その冊子のほとんどは中綴じのZINEのようなものばかりだったのだけれど、イギリスのリソスタジオ(名称失念)がしっかりとした書籍をリソだけで数種刊行しているのをネットで手に入れたり、スイスのアートブックの名門NievesのモノクロZINEシリーズがどうもリソで刷ってるっぽい、とかが分かってきて、海外のアートブックの世界では、新しいことが起きてるのではないか、と気付き始めました。
 そして思うのです。「もしかして、この機械を手に入れたら、どんどん次から次へ、作りたい本を作ることができんじゃないか!」と。



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