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視覚障害者が職業を選択するとき〜自分のこと③

自分のことを振り返ってみると、意外に覚えていないことに気がつきます。その時はとてもショックだったけど、時間薬が効いて今では思い出せないくらいになっている。それでも覚えていることは、人生の強烈なエッセンスなのでしようか?

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夏休みが明けて、2学期制だった高校はすぐに前期末試験が始まった。それは、大学に推薦入学願書を提出するための最終試験だった。力を入れなければならないことはわかっていたけれど、眼の痛みや気分の落ち込みで勉強に集中できず、成績は惨憺たるものだった。

何とか推薦をもらい受験した社会福祉単科の大学も、面接で志望動機や将来の希望を聞かれることはなく、板書が見えるか、移動は一人でできるか、大学は私のために特別の配慮はしないがやっていけるかなどを複数の面接官から言葉を変えて問われ、結局不合格になった。

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高校を卒業したら家から出て、大学に行って社会福祉を学ぼう。万が一教員になれたら、それもいいかも。
それまで「助けてもらう側」だったけれど、社会の役に立つ仕事がしたい。
そんな気持ちで受験した大学だった。
「不合格になったなら一般受験すればいい。」という人もいたけれど、面接の内容や自分の学力のなさ、眼の治療のことなどがぐちゃぐちゃになりそれどころではなかった。

両親、特に父親は「手に職を」という人だったので、眼を使わなくてもできる仕事はないかと、ピアノ調律や鍼灸の専門学校を勧められた。何を勧められても考えられない私がいて、何もする気が起きなかったことを思い出す。

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1月も後半になり、周囲が短大の推薦に合格したり看護学校に合格したりと、徐々に進路を決めていった。何も決めていない私を心配した母親が、私が小学生の時に受けた盲学校の教育相談を思い出し連絡を取ってみたらしい。
そして「一度面接に来るように言われたから一緒に行こう。」と言い出した。

盲学校?まじか?無理!

今どきの言葉だとこうなるか?

なんで今更盲学校?
盲学校に行ったら「あんまマッサージ」やるしかないじゃない?
ふざけないで。私は絶対にやらない。
ここまで固くなに思うのは小学1年生の時の忘れられない出来事があったから。

眼が見えないとあんましなくちゃならないの?
他の仕事についちゃいけないの?
他の仕事ができないって誰が言った?
誰が決めた?

爆発しそうな怒りをどこにも向けられないまま母親と一緒に盲学校に向かった。

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教育相談をしてくれた先生は「そんなにあんまマッサージが嫌ですか?」と私に聞いたような気がする。
私ははっきりと「嫌です。」と答えた…と思う。

というのも盲学校に行ったことは覚えているけれど、何を話したのか全く思い出せない。
ただ「あんまマッサージの免許を取ったら、その後2年上の学校に通ってそれを教える教員になることができるんです。」という殺し文句のような言葉だけは覚えている。
そして「病院や治療院でなく教員になれるなら、仕方がないか。」とあきらめの境地になったことも覚えている。
「眼が見えなかったらあんまをやるしかないのか?」そんな疑問は、しばらくの間私を悩ませた。

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1981年4月。私は地元の盲学校の専攻科理療科に入学しました。

教育相談の後、父親に
「これから先、左目も失明してしまうかもしれない。結婚もできるかどうかわからない。一人で食べて生きていかなければならないとき、何の資格もなかったら路頭に迷う。だからあんまの免許を取れ。」と言われたことは今でも忘れません。

とはいえ、視覚障害者が経済的に安定して暮らせるための仕事が、ほぼあんまマッサージ鍼灸の仕事というのは、当時の私にとって衝撃的な事実でした。
そして「自分には友人たちのように明るい未来なんてないんじゃないか?」と思っていました。
何十年か先、この免許があることでどれだけ救われるかなんて、考える余地もありませんでした。
若かったですね。

父親の心配をよそに、還暦を前にして左目は何とか見えていますし、夫とも34年一緒に暮らしています。
あぁ、良かった。

そして、盲学校に入学してからも私の飽くなき探求は続きます。

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