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73/わたしの住んでいる市のnote!父との思い出

連休最終日は雨の一日になりました。
最大9連休になったGW
皆さん楽しめましたか?

わたしは遠出はせず日帰りでお出かけしたり、義実家に行ったり新しくできたショッピングモールに行ったりして過ごしました。

お休み中はnote街をお散歩時間がなかったのですが、今日はゆっくりみなさんの記事を読ませてもらっています。

そしたらですね、
わたしの住む市のnoteを見つけました。

市のさまざまなことを紹介しています。
時期は過ぎてしまいましたが、
ネモフィラについて書かれているも記事がありました。

ネモフィラの丘は20年ぐらい前からあって、最初は今のように大きくなかったんです。
年を重ねるごとに成長していって、今では広く大きくなりました。

何年か前、「死ぬまでに一度はみたい風景」だったかしら?になって日本国内、いやアジア各国からたくさんの方が来られるようになりました。

☆☆☆

むかしむかし、まだ昭和の時代。
ひたち海浜公園のあるところは
アメリカ軍の射爆撃場でした。
そのことで悲しい事件や事故が多発して、県民の運動などもあって1973年に日本に返還されたそうです。

そして首都圏整備計画の一環として整備が進み、1991年にオープンして拡張を繰り返して今の形になったそうです。

わたしが住んでいたところは海浜公園から北に30キロほどの市で,第二次世界大戦の時には大きな被害があったところです。
父も母も戦争に遭いました。
私のおじさん、父の兄は戦死しています。
写真でしか会ったことがないおじさんです。

☆☆☆

射爆撃場が返還されたのは1973年(昭和48年)です。
その頃、親戚が漁師をしていて、父の運転で私と妹は時々那珂湊港に船を見に行っていました。

新鮮なお魚をもらってきた帰り道、特に秋は父は射爆撃場の周り、もしかすると中をを車で通っていました。
なぜか?
父はきのこ採りが好きだったんです。

射爆撃場の周りは松林で、秋になると松茸がたくさん生えていたらしいのです。
でも、多分立ち入りは禁止されていたのでお忍びというかなんというか…
よく捕まらなかったなって。

父は松林の誰もいないところに車を停めて
「お父さんは降りるけど、お前たちは絶対に降りちゃいけない。
不発弾があるかもしれないから。」
と言い残して松茸を探しに行ってしまうのです。

え〜⁉︎
車の中は私と妹の二人きり。
なんの音もしなくて、遠くに波の音と風の音。
誰か知らない人が出てきたらどうしよう⁇
爆弾が爆発したらどうしよう⁇
お父さん早く戻ってこないかな⁇

多分
そんなに長い時間ではなかったのだと思いますが、すごく長く感じたことは今も忘れられません。

父は昭和5年生まれ。
生きていたら今年93歳。
バリバリの昭和の人。
怖いことをたくさん経験してきて、怖いものなんてそんなにないって感じの人でした。
若い頃は相当やんちゃなことをしていたみたいなので、射爆撃場できのこを採るなんて朝メシ前だったのかも。
でも「痛み」と「ねこ」は嫌いでした。

☆☆☆

東京ディズニーランドの候補地にもなったこの地。
むかしむかしここで何があったのか、知る人も少なくなってきた現在。
でも忘れてはいけない事なんだと思います。
歴史を踏まえながら素敵なまちづくりができたらいいなと願っています。

ヘッダーのお写真お借りしました。ありがとうございます。

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