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子どもの頃大好きだった習い事を辞めた理由

娘の部屋のハンガーラックに ブルー地にレトロな花柄模様のコスチュームがぶら下がっている。一見バレエの衣装のような、だけど長袖のもの。

私がずっと大切に持っていたそれを娘は気に入って、ごっこ遊びで着ている。そして、たまにふざけて弟も着ている。

実はそのコスチュームは、実家で他の衣装と白いスケート靴と一緒に保管していたものでした。

靴は2足あり、一つは傷だらけのシューズでもう一方は、比較的きれいなシューズ。ある日母親から、実家を片付けているからと送られてきました。

このシューズとコスチュームを見ると、今でも胸がギュッとなる。悲しさと懐かしさと温かさの入り混じった複雑な感情。

私がフィギュアスケートに出会ったのは、小学校2年生の頃だったかな。幼稚園の弟が急に習い始め、気づいたら弟と交代して私が通うようになり、すぐにスケートに夢中になりました。

当時スケートリンクは、家から徒歩10分のバス停からバスで10分ほどの所にあって、学校が終わると一旦家へ帰り、すぐに着替えとシューズを持って出かけました。

通うのが辛いとか面倒臭いなんて1度も思わなかった。何よりもスケートが大好きで夢は『スケートの選手!』でした。

氷の上をスーッと風になって滑る様な感覚、氷をエッジで蹴る感覚、スピンで回る感覚、地面ではできないそういう瞬間は、私に妖精になった様な何か特別な自分になれるようなスペシャルな気持ちにさせてくれました。

リンクの中にはフランクフルトやポテトなどのお店があって私はアメリカンドッグが好きだった。それとリンクを出てすぐにマクドナルドがあって、そこでテリヤキバーガーとストロベリーシェイクを練習帰りに食べた記憶がある。最高だった。

行き帰りのバス代、リンク代、食事代、それだけで結構お金を使ってたんだな。って今振り返りながら思う。

コーチは若くて美人で優しいN先生でした。ショートカットが良く似合う相原優を優しくした様な雰囲気で、私はすぐに大好きになりました。先生に習うメンバーで先生の家に遊びに行った事もありました。一頭地の川沿いの上品な家だった。

平日練習はいつもは夕方だったけど、たまに早朝練習の時もあって、まだ誰も来ていない早朝のリンク全部を使って練習ができました。仕事の忙しい父が、仕事前に送ってくれたのを覚えています。


初めてスケートの大会に出る事になった。

N先生が振り付けをしてくれて、プログラムの練習が始まってからしばらくしたある日。突然その日はやってきました。

私はいつも来ない母と一緒にリンクに来ていました。そして、母が一言

『やめますって言ってきなさい。』と。

渋々少し離れた場所にいた先生の所へ行き、

『やめます。』と伝えました。

言いたくなかったけれど、私には選択肢がなかったから。

他に何を言ったのかは覚えていないけど、先生の寂しそうな、悲しそうな表情だけはハッキリと覚えている。

この日が来る前、衣装を作る時もシューズを作る時も、母は、それらがどれぐらい高額なのかを私に話していました。習っているお友達はみんな裕福な家の子だけど、うちは違うと。 

それを聞きながら、スケートを続けられないかもしれないと私もウスウス気づいていました。

そんな状況を察してか、辞めると言う少し前にN先生は、小さい頃使っていた衣装を私にくれました。

それがあの、ブルー地にレトロな花柄のコスチュームでした。

スケートを少しでも続けられるようにと、先生が私の為にしてくれた優しさでした。

残念ながら、続ける事はできなかったけれど、先生の優しさがとても嬉しかった。いつか機会があれば、お礼を伝えたい。。


大好きなスケートを辞めた後、私の中にポッカリ穴が空いて、それを埋められる同じ質量の物が何も無かった。

確かにそこにあったはずの私の居場所も夢も1度に失くしてしまいました。ピアノやサッカーを習っても、あのワクワクした気持ちは湧いてきませんでした。

我慢強かった小さな私はきっと『辞めたくない』なんて言えなかったんだろう。どうしようもない事が分かっていたから。

せめて泣ければ良かったけれど、ちゃんと泣けたんだろうか?あの頃の記憶が曖昧で覚えていないんだけど。

大人になってから母に聞いた話では、コーチを変える為に高いお金が必要だった事。海外合宿に100万かかると言われてさすがに続けさせられなかったと。(そりゃしょうがないわ。。)

私自身が親になった今、子どもたちには好きな習い事をさせてあげたい。『お金』の問題で悲しい思いをできるだけさせたくないという親心もわかります。

きっと辞めさせなきゃいけなかった父と母の心も痛かったんだろうな。。

さて、大好きな習い事を嫌々辞めなければいけなかった私は、その後どうなったっけ?

正直言うと、辞めてすぐの頃の記憶がないんだけど、小学校高学年の頃には、たまに思い出すと切なくなるぐらいになった。友達とスケートに遊びに行く時には、ドヤ顔で滑れた。笑

中学になると、部活や恋愛が忙しくて楽しくて、思い出す事も無くなった。

そして、大人になった今では全部ひっくるめて素敵な想い出になっている。

結果的に辞めなければいけなかった事は辛かったけれど、やりたい事を経験できた事の方が今となっては幸せだったと思う。ただ一つ言うなら、最初で最後の大会だけは記念に出たかったなー!

子供のうちに、悲しいことも嬉しい事も経験の中で学んでいく。

自分ではどうしようもない事もある。

それを周りのせいにして捻くれてしまう事は簡単だけど、それは結局なんの手助けにもならない。

どうしようも無い事も自分の中に吸収して前に、次へと進んで行く。そうした方が結果、自分の為になるんだから。

つまづいたり、ぶつかったり、挫折したり。。そこから学ぶことが、いつかその先を生きる力になる。

必ずなるよ。

小学3年生の私は、きっと何も考えていなかったんだろうけど(ボーッとしているタイプだった)、〇〇のせいで〜とか、どうせ〜とか、そういう捻くれ具合にはならなかったように思う。ただただ、お金持ちにはなりたかったけど。笑


つい最近、初めてのバレエの発表会で娘が踊ったのが、『くるみ割り人形』の〝お茶の妖精”だった。

まさかの、私の出られなかった大会の演目の曲だった。

曲を聞いた瞬間、私のいつかの思いが昇華されたような気がした。ありがとう娘♡





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