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生きる価値のある命「世界ダウン症の日」

ご訪問ありがとうございます。
私たちMaorisは、発達に課題がある子ども達を育てる大人のためのオンライングループを運営しています。神経可塑性を専門とする米国理学療法学ドクターである顧問を筆頭に、国内外の先生方から自宅でできる発達促進法を学んでいます。
 
明日3月21日は「世界ダウン症の日」です。ダウン症のある人とその家族、支援者への理解が一層深まり、ダウン症のあるひとたちがその人らしく安心して暮らしていけるように、世界中でさまざまな啓発イベントが行われます。

私たちMaorsからは、われらの哲学講師がメンバーに宛てた記事を今日は特別に無料公開いたします。社会のインクルージョン実現にむけて必要なあり方を考えたものです。
 


出生前診断がインクルージョンを後退させている

米国に俳優やスペシャルオリンピック選手として活躍し、障がいのある人々の権利を提唱するフランク・スティーブンス氏という人物がいます。彼にはダウン症があります。
約5年前、彼は米議会に登壇し、世間では未だ見解が分かれるダウン症のある人々についてのスピーチを行いました。
証言の表向きの目的はアルツハイマーと21トリソミーとの関係性などといったダウン症に関する研究に国家予算が充てがわれるよう委員会に訴えることでした。ダウン症のある人々だけに関わらず、いずれは社会全体の利益となり得る研究です。しかし、それだけでは終わらず、今や一般に広く普及し希望者も増加傾向にある出生前診断によって、ここ数十年の間に少しずつ発展した社会全体のインクルージョンに対する姿勢が後退の危機にあることへの懸念を訴えました。

「今日、ここでの学びが何であろうと、どうかこれだけは忘れないでください。私はダウン症のある1人の男であり、私の命は生きる価値のあるものだということを。」

彼の声明はこのように始まりました。

ダウン症がある人々が、あらためて自らの存在の正当性を主張しなければならないことに、憤りを感じていることは明らかでした。

親が自分が欲しいと思う子どもを「選択する」

出生前診断の普及に伴い、染色体異常のある胎児の中絶率は急激に上昇しています。「どの命であれば生まれて然るべきなのか」を問うに等しい現象ではないでしょうか。この議論が行き着く先は、スティーブンス氏が言った「ダウン症があっても生きる価値のある命」以外の何物でもなく、私たちは今「誰が生きられるかを人が選択することの倫理について考える」べき岐路に立っているのです。

近年の遺伝学の発展により、自分が欲しいと思う子どもを「選択する」という途方もない選択権が親に委ねられることになりました。一昔前までは、夫婦や親となる人々が決めるべき重要なことと言えば子どもを持つかどうか、持つとしたら何人欲しいかということくらいでした。しかし今日の親がしばしば直面するのは全く異なる類の選択肢です。 

子どもを全く持たないということを夫婦が選んだ場合、それは子どもを育てる心構えが整っていない、という気持ちがあるのかもしれません。経済的な問題や個人的な事情だったり、理由は様々あることでしょう。
一方で、子どもが欲しいという気持ちがあるにも関わらず、診断で障がいがあると判明した子を産まないという選択をする場合、選択の引き金となる理由には全て家庭の将来に覚える漠然とした不安が影響しています。こうした状況において、両親の選択の根元にあるのは不安への恐れであり、障がいのある子どもを育てるということが明確に理解されているケースはほとんどありません。

ダウン症と診断された子どもの中絶実施率90%

親になる人々の間では「最小限のリスク」が支持されていることは最近の統計でも明らかになっています。 ダウン症と診断された子どもの世界的な中絶実施率は今や90%に登ります。アイスランドではダウン症のある胎児はほとんど全員に中絶の処置が施されます。デンマークではその割合が98%、フランスでは80%、米国では67%です。2008年から2015年の間に実施されたとある研究によると、日本の平均的な中絶実施率は94%だそうです。
こうした高い数値は、たくさんの国々が示してきたよりインクルーシブかつ多様性のある社会を築こうとする大きな歩みに矛盾するように見受けられます。
未だ克服すべき偏見はたくさんあるものの、今ではダウン症のある子どもに与えられる早期療育やインクルーシブ教育の機会は過去に類を見ないほどになりました。成長した後にはサポート付きの自立生活プログラムもあります。加えて、医療技術の発展により、ダウン症のある人の寿命は40年前と比較すると約2倍ともいわれ、就職の機会や法律の庇護も飛躍的に拡大しました。ダウン症があり、活動的で幸せな人生を満喫する、と言うことはもはや夢ではなく、果たすことのできる現実へと変わってきたのです。

産まないことを選択する人が多い理由

それなのになぜ産まないこと選択をする人々がこんなにも多いのでしょうか。 色々な側面のある複雑な問題ではありますが、究極的に要約すると、自らが生きるコミュニティ内でのオープンで思慮深い「やりとり」の欠如に尽きるのではないかと私は考えています。孤立の感情が問題の根源である、という言い方もできるかもしれません。

将来の不安というものは皆それなりにあるものです。しかし、人生における最も重要な決断を下す際に「不安」が動機で前に進めない時というのは、ほとんど例外なく周囲から切り離されてしまうのではという気持ちが高まっていることの表れです。
多くの場合において将来の不安とは自分のコミュニティへの信頼の欠如を反映するものです。予期せぬ困難に直面したときに必要なサポートや励ましが得られる自信が無いのです。そして、自身が孤立し、守ってくれるものが何も無いと感じるときの典型として、人は自分が慣れ親しむ世界に安心感を求めるのです。
 
ほとんどの出生前診断の現場で起こっていのがまさにこうした現象ではないでしょうか。診断の手順そのものがすでに不安が伴うものであるにも関わらず、子どもに障がいの診断が下りたとき、女性たちは非常に難しい決断を下さなければならない立場に立たされます。それも、然るべき指導やカウンセリング、あるいはダウン症やその他の障がいに関して、正確で新しく十分な情報さえ不足する状況の中で。医師たちは中絶を積極的に勧めないよう指導されてはしてはいるものの、診断を取り巻く全体的な空気には、十分な選択肢などは実際のところ無いのだと多くの女性に思わせてしまう力があります。 

医師が実際の手順を説明する際、健康への懸念やダウン症のある人々の能力についての会話は全くされないか、されたとしてもネガティブな印象を伴っていることが多くの調査で指摘されています。母親には支援団体を紹介されることも、障がいのある子どもを持つ家族に引き合わせてもらう機会が与えられることもまだ十分ではありません。これから起こりうる可能性についてをよりよく理解するための本やウェブサイトの案内すらも無いことがあるそうです。こうした社会の怠慢さが、障がいのある子どもを産むことがコミュニティからの孤立を意味するのだという印象を、必然的に覚えてしまっているのではないでしょうか。
全体的な診断手順そのものが、人が最も傷つきやすい瞬間にその人を孤立させ、孤独に追いやってしまうことが起きています。

女性たちの決断は、コミュ二ティや社会の鏡

 ダウン症のある子どもの母親であり、出生前診断について非常に多くの記事を執筆してきたエイミー・ジュリア・ベイカーという女性がいます。診断が下りた子どもを産むか産まないかの決断は個人の選択であるという認識にこそ根本的な誤解があると訴えています。
「一見個人の選択であるかのようではありますが、障がいのある子どもをこの世界に迎えるか否かの選択は全て社会的背景ありきで下されているのです。出生前診断を受けて妊娠を継続させる女性も、終わらせる女性も、誰の影響も受けずにただ1人で決断を下しているわけではありません。女性たちの決断は、自身の属すコミュニティや社会の現実を映し出す鏡なのです」と。

インクルージョンの実現に必要なこと

ベイカー氏は社会に、障がいのある人々の受容に加え、保護者や、産む!と選択した未来の母親への堅実なサポートシステムの構築を訴えています。インクルーシブな社会には、将来への不安を和らげる結び付きや相互理解が欠かせません。様々な構成や形態の家庭や子どもたちの人生を互いに受容することに加え、その違いから生まれる「豊かさ」を積極的に尊ぶ姿勢こそ、インクルージョンがもたらすものです。その実現に必要なのは、誰にでも開かれた対話。そして、世界から居場所も声も奪われ、排除されてしまうことから生じる不安や孤立に打ち勝つ「共にある」と言う雰囲気です。
人生の予期せぬ出来事を受け入れること。苦難と忍耐の末に得られる智恵を尊ぶこと。お互いの声に耳を傾ける姿勢がいついかなる時も整っているということ。私たちが何事にも心脅かされることなく、これらを実現できる環境こそがインクルージョンの意味するところなのです。 

哲学の仲間の皆さん、いつも私の記事を読み、温かい反応を寄せていただきありがとうございます。私たちのコミュニティにもたらしてくれる、皆さんの比類なき思いやりと理解に感謝を込めて。  


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