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Maorisママからのメッセージ:カナタとの歩み。ダウン症とともに。【生まれてから検査結果が出るまで 】

ご挨拶

はじめまして、Maorisメンバーのかなたん母と申します。
2018年7月に、ダウン症(合併症は一過性骨髄異常増殖症/TAM)の男の子を出産しました。生まれる3週間前までバリバリフルタイムで仕事をし、現在はまたフルタイムで仕事復帰しています。居住地は雪国の片田舎。療育なんてまともに受けられない、けれど人は温かい、そんな地域で暮らしています。
この子を授かる前に稽留流産を経験していたので、おなかに宿ったことも、無事に生まれてきたことも、私にとっては全てが奇跡のような出来事でした。
息子は産後すぐの1か月半と、さらに生後7か月から1歳2か月までの6か月間、計2度の入院生活を経験しています。障がいや病気があっても、愛しい我が子。共に家族として息子と生活する中で、障がいや病気は「当たり前のこと」となっていきました。今ではとても楽しい毎日を送っています。


 これからこの場をお借りして、「我が子の成長と発達の記録」をMaorisで学んだ「家庭でできる発達促進」と関連付けてご紹介させていただきます。

今現在息子は2歳6か月です。遊びや生活に関すること、言葉に関することなどにおいて、発達のしくみを学んだ事でより丁寧にかかわることが出来ていると感じています。ここは私が努力している点でもあり、自負できる点です。
私がたくさんのブログで愛と勇気を頂いたように、息子の歩みが必要な方に届きますように。
 拙い文章ですが、お付き合いいただけたら嬉しいです。どうぞよろしく願いします。

運命のあの日

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妊娠中は、高齢でありながら何一つ問題のない優秀な妊婦として過ごしてきました。それなのに最後の最後になって「赤ちゃんがおなかの中で苦しいサインを出しています。」と言われ、日曜日のお昼時に緊急帝王切開。何が何だか分からないまま、それでも無事に息子は生まれてきてくれました。


オギャーという元気な産声を聞き安堵の涙が溢れたことは今も鮮明に心に残っています。しかし私の腕の中に戻ってきた息子は、体温がなかなか上がらないという状況でした。「検査に行ってきますね」と看護師さんが連れて行ったまま、息子は私のもとへ帰って来ませんでした。次に看護師さんが現れたのはそれから5時間後......生まれてから7時間も経っていました。それにその時、なぜか小児科医、小児科の看護師、産婦人科の看護師の3人が病室をたずねてきたのです。小児科医からは淡々と、はっきりとこう告げられました。「心臓は大丈夫です。血液の状態があまり良くなく、一過性骨髄異常増殖症とダウン症を疑っています。これから大学病院に救急車で搬送します。私が付き添いますのでお父さんも同乗をお願いします。」

頭の中は真っ白。「はい」と返事をしたのかしなかったのか、全く覚えていません。私の頭の中に強く残ったのは「ダウン症」という言葉でした。実母がずっと私の手を握ってそばにいてくれたことは鮮明に覚えています。その状態で一生懸命検索魔になっていた私。一過性骨髄異常増殖症って何?いずれ白血病になるの?ダウン症って......職場の人たちに何と説明しよう。いろいろな思いが頭の中を駆け回っていました。


母は一緒に病室に泊まろうか、主人を病室によこそうか、と話を持ち掛けていましたが、ゆっくり休みたいから、という理由で私は断りました。そうこうしているうちに主人から実母へ電話が入り、母は帰宅しました。(と思っていましたが、実際は大学病院の旦那のもとへ走っていたそうです。)

危険な状態

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出産の翌日、主人と義母、義姉が私の元を訪ねてくれました。主人は「早く赤ちゃんの名前を決めてあげよう!出生届を出してくるから。赤ちゃんを名前で呼んであげたい!」そう話しました。いくつか候補があったものの、顔を見てから最終決定することにしていたのです。名前は私が決めてもいいという主人の言葉に責任重大だと思いつつ、朝から名前は決まっていました。
ほぼダウン症で間違いないだろうと思った時、幸せな子にしてあげたいと心底思いました

命名「奏多」。音楽を奏でるように楽しい人生を歩んで欲しい、多くの人に笑顔と癒しを与えられる人になって欲しい、そんな願いを込めて

きっとたくさんの人に助けてもらうでしょう。でも人に助けてもらうだけではなく、何かを与えられる人間になって欲しい。頭の中がダウン症でいっぱいになった後、私の心に芽生えたのはこんな思いでした。


家族はみんなが暖かく包んでくれました。すべてを受け入れてくれていました。しかし、実はその背景で「今夜が山です。長く生きられないかもしれません。」という医師の言葉があったということ。この事は、命が保証された出産3日後になってようやく母親である私に告げられました。私以外の家族は、みんなが辛い思いをしながらも私の前では笑顔でいてくれていたのです。

医師は私に分かりやすい言葉で、優しい口調で、私の目をしっかり見ながら話してくれました。異常なほど多かった白血球の数値が適切に下がってきていること。1か月後には今とは全然違う生活になるからおなかの中に11か月いたと思えば大丈夫だということ。2~3年後には白血病を発症するリスクが高いこと。そしてダウン症の可能性が高いこと。これらをものすごく丁寧に話されました。
良かった、生きていける!」白血病発症のリスクはあるけれど、今現在命の危機はもうないのだ。「ダウン症は大丈夫。命があれば何だって出来る!」この時は強くそう思いました。

揺れる思い

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遺伝子検査の結果が出るまでの間、息子に障がいがあることは受け入れていたつもりでした。
しかし、正直な話をすれば、私の気持ちは穏やかではありませんでした。「ダウン症でも大丈夫、生きていれば大丈夫」と思える時と、「まだ結果は出ていない。実は違うかもしれない」という淡い期待を持ってしまう時。奏多が入院していてそばにいないからつい余計なことを考えてしまうのです。

面会に行くとその可愛さに癒され、母親になったことを実感し、幸せでいっぱいになるのに......実際、この頃の私は時間が許す限り奏多を抱き、全身をマッサージし、言葉を掛けていました。早く家に連れて帰りたいという一心で。

ダウン症確定

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出生から3週間程で結果が告げられました。21番染色体が1本多い「ダウン症候群(21トリソミー)」。結果がはっきりと出たことは私の気持ちを晴れやかなものにしてくれました。この時はすでに、先に先生がおっしゃった通り生まれた時には想像もできなかったような幸せを感じていました。点滴が外され、鼻から入れていたミルクの管が外され、母乳やミルクを一生懸命飲み、私の目をじっと見つめてくれる。

そんな目の前にいる奏多が教えてくれました。「ダウン症でも大丈夫だ」と。  

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今振り返って思うこと

何をそんなに恐れていたのだろう、何をそんなに考えていたのだろう。私の場合はただ1つ。「思い描いていた生活が送れないのではないか、周囲に受け入れてもらえるのだろうか。」という不安でした。しかし、何も不安はいらなかったのです

私たち家族がしてきたことは、奏多のことを包み隠さずみんなに伝えること。奏多を精一杯愛すること。奏多の可能性を信じること。たったこれだけでした。
このことが奏多だけではなく私たち家族の人生を豊かなものにしてくれています。家族が、親友が、同僚が、上司が......みんなが奏多を愛してくれています。


次回からは、具体的にどのような生活を送ってきたのか、生後7か月~1歳2か月の長い入院生活ではどのように過ごしていたのかを紹介しながら、遊びがもたらした様々な発達についてお話します。

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