「主観的」という評価について。特に、人の意見や歴史の叙述を「主観的」として否定的に評価することへの疑念。

私は今まで、真央ちゃんについての伝記的著作に関して、吉田順の著作ばかり取り上げ、宇都宮直子について述べることはほとんどなかったが、それは後者を否定的に評価していることを意味しない。

両者の著作は、互いに補い合うような「愛」の関係にある。二つずつ、あわせて四つのまとまった著作がある。それら四つを私は完全に勧める。

  • 宇都宮直子『浅田真央 age15-17』(文春文庫、2009年)

  • 宇都宮直子『浅田真央 age18-20』(文春文庫、2013年)

  • 吉田順『浅田真央 さらなる高みへ』(学研、2011年)

  • 吉田順『浅田真央 そして、その瞬間へ』(学研、2013年)

この宇都宮直子の著作についてグーグルで検索すると、それが「主観的」であることを否定的なトーンで評価しているものがいくつか見つかる。しかし、そのような評価の姿勢そのものに私は疑念を呈したい。

真央ちゃんと宇都宮直子との間には長い人格的つきあいがあり、互いに信頼の関係がある。それがこれらの著作を通して読み取れる。その具体的な関係のおかげで聞き出せた「主観的な」こと、「主観的に」書けたことこそが、その著作の核心である。そこに、吉田順の著作にはない、宇都宮直子に固有の強みがある。

だから、まさに「主観的であること」そのものに、この場合は価値がある。それを「主観的」として否定的に評価することは、その「豊かさ」の本質をわかっていないことを意味する。

歴史や伝記というのは、そもそも「主観的」なものである。宇都宮直子だけでなく、吉田順も自らのやり方において「主観的」である。それぞれの著者が自らの立場で、客観的な事実のなかから出来事を選び出し、評価し、叙述する。「主観的な」営みである。まさにその「主観的」であることに、書き手たちの責任がある。

そもそも、「主観的」だからといって、(「客観的」との対比で)それ自体として「劣る」ものであるかのように思いなすことが間違っている。この愚かな傾向は、現代の日本の言論空間の一部で根強くはびこっている。

それは、ひろゆきの有名な発言を決まり文句として用い、相手の意見に「感想」というレッテルを貼ったうえで、その「感想であること」そのものに対して馬鹿にした態度をとり、そうして決して相手の言葉に耳を傾けないようにする、あの愚劣さと本質的に同じものであり、同じ根から発していると思われる。

まさにそのような態度が、われわれの国、日本の人々の心を間違ったやり方で導いている。それは一種の「疫病」である。誰かが「ワクチン」を作って、それに対抗しなければならないと思う。

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