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言葉は綺麗事の始まり

なんだかひねくれたタイトルですが、
少し前に体調が悪くてお休みしていた時に
感じた事を今のうちに書き殴っておこうと思いまして。(怒りと悲しみをパワーに)

病名は伏せるのですが5月頭から体調が悪く、
気づいた頃には悪化し通院をしておりました。

状況といえば歩ける状態ではなく、
GWもずっと寝込み、
布団から立ち上がれない生活。
(歩くのもままならない)。

もともとGWはあまり遠くには行かず
近場で過ごすのが好きなので、
これといった予定は無かったのが救いでしたが「折角のお休みだし、写真撮りにいきたいな〜」なんて気持ちは見事に粉々にされました。

SNSを見ると周りは充実していて、
暗い寝室で見ていると余計そんな人たちが眩しく、しばらくSNSからも離れていました。


寝転がっていると色々な事を考えます。

ふと「写真家たるもの一日一写」という言葉を
思い出して、その言葉を読んだ過去の私もそう思っていました。
一日一枚くらい撮れるやろ。と。

確かに写真家たるもの、日々過ごしていて写真の事を考えない日はないです。

「あ、あそこの光綺麗だな」とか
「ここのロケーション良いから次撮影で来よう」などなど。
常日頃見ているものを写真に置き換えてしまうんですよね。もうずっとそんな生活をしているので慣れてはいるのですが。

だからこそ、慣れは気持ちを軽くしてくれるので「一日一写」なんて余裕だ。カメラを持ち歩けば楽勝!なんて思っていました。
そう、寝込むまでは…。

なんなら体を動かせなくなっても、
「1枚は撮ろう。入院したとしても窓からの景色を撮ればいい。」と思っていましたが、
いざこうも動けなくなると結論「無理」。

私は「◯◯しなければならない」と言う人が昔から嫌いなのですが、一日一写に関しては言われたとしても、余裕とさえ思っていたのに。

こうも簡単に人って体調が悪くなると無力なんだなと痛感しました。
仕事にも影響が出てリスケの調整に心も痛く。

"一日一写"と言い始めた人というより、
自分の綺麗事な心、慢心、過信に嫌気がさして
自身の脆さを改めて感じたのです。


立てない、動けない、座ることも辛い、
ご飯は薬を飲むための義務。

そんな時に心を救ってくれたのはスピッツの音楽でした。体は動けないけど意思は働いてるので、イヤホンでずっと色んな音楽を聴いていたんです。音楽の徘徊。

最近は聴いてなかったけど、
たまたまシャッフルから流れたスピッツの「正夢」が流れてきて、呟くように聴いていたら
勝手に涙が流れていました。

特にスピッツ「正夢」は今の自分と重なる歌詞などは無いと思っていましたが、なんだか泣けてきて暗い部屋で一人ぽつりと涙が出ていて。

きっとこれから先もあの時の空間・感情は忘れないと思います。特別な場所じゃなくても心に響く音楽は確かにあるから。


そんな日々を過ごしながら、
少しずつ元気になり通院しつつも
5月中旬には快方に向かっていきました。

「まあ完治まであと4週間はかかるかな〜」と
お医者さんにサラッと小さな絶望を植え付けられましたが、現在はほぼ良くなっています。
(はあ〜本当に良かった。)

私が今回伝えたかったことは、

◯言葉の力がいくらあっても、
実際自分が窮地に追い込まれて
初めて意味を知る。

◯特別な空間がなくても、
人には忘れられない瞬間があること。

これは自分への新たな教訓になりました。
もう懲り懲りなのでしばらくは元気に過ごす事が目標です。

特に"忘れられない瞬間"は私の中で消えることはないけど、より形にしたくて今回書いてみました。

皆さんも体調にはお気をつけて…。

それでは。

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