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ワニくんが死んで、1週間後に想うこと

ワニは死んだ。ワニは死んだままだ。そして我々がワニを殺したのだ——。

ワニくんを失った1週間前、なんとも名状しがたい傷心を抱えながら中央線に揺られていたら、突如かの有名なニーチェの言葉が降ってきた。「神」を「ワニ」に変えて。

※「100日後に死ぬワニ」とは……
クリエイターのきくちゆうき氏がInstagram,Twitterにて公開した漫画。内容としてはワニとその仲間のごく平凡な日常の些事について、毎日4コマで表現される。連載開始から100日で死ぬということは1作目から予告されていた。漫画の最後にはかならず「死まであと〇日」というカウントダウンがされるが、100日後に死ぬとは夢にも思っていないワニが1年後の予定を組むシーンが登場するなど、せつない要素が随所にちりばめられている。

たしかにあの炎上騒ぎでケチがつき、ワニくんをコンテンツとして殺したのは読者の側かもしれない。さらに、結局のところ何を伝えたかったんだ?とか、なぜニュース番組で取り上げられるほどの「社会現象」と化したのか?とか、なぜ読者は不快になったのだろう?などと考えているうち、「100日後に死ぬワニ」は社会学的にあまりに深い存在であるのではないかと思えてきた。わたしとしては電通が絡んでいたかどうかはどうでもよい。コンテンツそれじたいへの注目やその後の炎上騒ぎが、じつによくひとの情動を反映している、ということについてチマチマと考えつつ、ひとり世の流れに取り残されながらワニくんを悼みたいとおもう。

読者がほんとうに肯定したかったもの

面白かったのは、生を死の側から見つめなおすという構図。無限だと感じるからこそ「日常」と名づけることのできる日々が、100日という有限性から編みなおされる。新型コロナウイルスの感染拡大で、日常という「足場」が取りくずされるように感じられる時世も影響したのかもしれない。作者は、じしんの友人を交通事故で亡くした経験から「何があるか分からない中で、限りある時間を大切にしてほしいとのメッセージを伝えたい」という意図で連載を始めたという。だから素直に読めば、何気ない今日という一日のありがたみを実感させる作品であり、有限だからこそ美しい人生の賛歌であり、読者はワニくんの純朴な人柄と、そのささやかな幸せを肯定する。わたしも限りある生を大切にしたいとはおもうが、この作品がこんなにも多くのひとに受けいれられた(というより「ウケた」)のは、そんな単純な理由だけではないと踏んでいる。

なぜ我々はこうもワニくんを愛しくおもったのか。
それは、この作品が壮大な「現代人のための日常肯定譚」だったからだ。

ワニくんは特別な存在ではない。言ってみれば、ひとが「応援」したくなるような、健気だが、英雄ではないし、優秀でも裕福でもない。ただ平坦な日常で、やさしい心根の持ち主だけれども夢はない(ゲーマーになりたいとは言っているが、本気でやっているようには感じられない)、勤勉ではあるがバイトどまり。充実した日々を送る人を羨むこともあるが、現状を打破する努力はできない。でも、少ないけれど気の置けない友達はいて、映画や漫画の続きを楽しみにできる日々。誤解を恐れずに言えば、「一般」とされる水準からするとやや「劣った」存在である。

わたしはこれをInstagramで追っていたが、各投稿に寄せられるコメントにはただただ肯定のことばが並ぶ。それを見ると、あぁ、これでいいんだ……とおもえるのだ。だって、考えてみてほしい。こういう生活をしているリアルな友人がいたとして、それをやさしい気持ちで全力肯定できるだろうか?年齢は不詳だが、勉強かバイトじゃない仕事を「した方がいい」年ごろであるとは予想がつく。学校、行ったら?ちゃんとした仕事に就いた方がいいんじゃない?きっとそんな風におもうだろう。

わたしたちは常にプレッシャーをかけられている。社会から、親から、友達から、じぶん自身から。過去から、未来から。停滞をゆるさない、リニアな時間軸のうえで、つねに競争にさらされている。しかしワニくんの日常は、何物にも追いたてられず、何かに向かって進んでいるわけでもなければ、それを負い目と感ずることはあっても、極端に悲観的になることはない。そんな人生の<踊り場>に、ずっと生きていた。
読者は、そんなワニくんの何気ない日常を肯定することを通じて、じつはみずからの生を肯定していたのではないかとおもう。成功者じゃなくていい。何か輝かしいことを、立派なことをしていなくても、生きているということはすばらしい。SNSという媒体、漫画、投稿時間帯(19時。多くのひとにとって帰宅時間)、コメント、これらが、ワニくんへの称賛を通してじぶんを承認するという構造を可能にした。だからこそ読んでいて毎日気分よく読めたのではないか——というのは、穿った見方だろうか。

さらにこれを成り立たせるには、もうひとつ重要な要素がある。それはじぶんたちのリアルな日常との「距離感」だ。バイトしたり、親との関係があったり、友達の種類にムラがあったり、恋愛の微妙さがちょっとリアルだったりする。ゆったりとした時間の流れとほのぼの感、登場人物はすべてヒトではない動物、しかし直立二足歩行で言葉を話し、その生活や感情は現代の人間のそれと地続きであると感じられる。あまりに隔世の感のあるユルさだと(たとえば、いまこの瞬間にわたしの脳裏をよぎったのは「はなかっぱ」だ)ついていけないひともでる。「100ワニ」はこの絶妙な距離感が読者の心をつかんで離さない。


早すぎた商業化:なんのための時間が欠けていたか

コンテンツマーケティングとかの観点から色々言われているようだが、そちらはちょいと疎いので手の届く範囲の話をすると、「喪に服す時間が足りなかった」というのがそのものずばりではないだろうかとおもう。死を悼む、もあるのだろうが、結局ワニくんはコンテンツであり、作者も商業サイドもお金を稼ぎたい人たちであるという、読者との温度感のずれを補正するための「間」が不足していた。
喪に服す、とは故人の死を悼み、身を慎むことである。これ、一見故人のためのもののように見えて、結局は生き残ったひとびとのための儀式なのだとおもう。葬式も同じだが、つまりは故人がいないという事実を受け止め、やわらげ、消化していくための時間。前に進むためのクッションとなる時間、肯定されるべき感情のよどみ、ひととして当然の停滞のときなのである。

ワニくんの場合はフィクションなので上記はやや言いすぎだが、とかくワニくんの死をゆっくり悼みたい、という自然な感情を完全無視してしまったのが最大の原因だとおもわれる。ひとは気持ちの上で納得してさえいれば、不合理なことでも受け入れられるようになるし、逆もまた然り。気持ちの上で納得できないことは、ロジックで詰められてもだめなのだ。
結果、いろんな点での「切り替え」「どんでん返し」に気持ちが追いつかず、行き場を失った負のエネルギーは、猛烈な批判や流言として顕現した。
その切り替えを言葉にするならば、
・人格を感じていたワニくんが、一瞬にして「商品」に頽落した。
・読者は近くで一緒に見守っていたと思っていたのに、はっきりと「(ワニくんグッズや映画にお金を落としてくれる)お客さん」として囲い込まれた。
・ワニくんのささやかな日常を、手作りの漫画を通して応援していたはずだったのに、自分の生活圏をはるかに超える大きさのビジネスが一挙に表れて、興ざめした。
・まだあまり有名ではない作者やワニくん、一緒に見守っている同じ目線のフォロワーたちとの「対話」だったのに、そこに一方通行的なビジネスがいきなり立ち現れ、しかもそれに操られていたと感じ、一連の出来事が急に遠い世界のことに感じられると同時に「仕組まれた感動」への胡散臭さがぬぐえない。
・すべてを知っているわたしたち(「神の目線」)>何も知らない純朴なワニくんたち、という構図が、すべてを知っていた商業サイド>その掌の上で転がされていたわたしたち(客)という構図にひっくり返って立場が逆転し、おもしろくない。

結末と前後して投稿されたこと、商業展開のスピードと範囲が尋常じゃないこと、憤りや違和感をおぼえるポイントはそれぞれだと思うのだが、多くの読者が一様に感じた「コレジャナイ感」「気に入らなさ」はおおむねこんな構造的原因に根差していたとおもう。
商品化のサイクル、流行り廃りのサイクルの早まりは理解できる。が、人の気持ちは変わらない。そのちぐはぐさが露呈したということなのだろう。

「消費」の観点から

が、考えてみれば身勝手な話だ。ワニくんの物語をわたしたちは、毎日応援していたといえば聞こえはいいが、日々の楽しみの一つとして「消費」していたことは間違いない。クリエイターが己の作品をどのように扱い商品化するかも自由だし、個人として見損なったわ、とおもわれることはあっても非難されるいわれはない。
ひとびとの情動がここまで猛烈に負の方向に盛り上がってしまったのは、「消費されたくない」という意識が働くからではないか。簡単にいえば、「ドッキリ見るのは好きだけどやられたくない」ということだ。
現代の、この恐ろしいまでの消費社会——よく哲学者の鷲田清一も言っているが、生まれてから死ぬまでの生きるためのワザを行政や各種サービスにアウトソーシングし、消費を重ねることでしか生きられなくなってしまったわたしたち。消費行動がわたしたち(殊に日本人)の意識に浸透させた消費物との関係性とは、対価を支払うかわりに要請にこちらの望む形で応えてもらわねば困る、という、「支配欲を伴ったちょっと上からの交換関係」である。

だからこそ、ひとは「消費される」ことを嫌う。消費されるということは、代替可能な消費物への「格下げ」を意味するからだ。
今回読者は、ワニくんより少し上の立場から成り行きを見守っていたはずだった。しかし、気づかぬ間に支配権を商業サイドに握られていたと気づいたとき、つまりじぶんたちよりも多くの情報を別の誰かが持っていたということに気づいたとき、そこに明らかな立場の逆転を感じ取ったのだろう。「『(ワニくんグッズや映画にお金を落としてくれる)お客さん』として囲い込まれた」と先述したのは、つまりこういうことである。

いろいろ言ってきたが、ありがとう、ワニくん。

いろいろ言ってきたが、ありがとう、ワニくん。いつのまにか、ワニくんが嬉しそうだと嬉しくて、悲しそうだと、どうしたの?となってしまうじぶんがいた。あるあるな日常に共感したり、友達思いのねずみくん、ほんとにイイヤツだなぁと胸が熱くなったりした。(ワニくんステッカーがほしい!。)ちなみに100の漫画のうちお気に入りは以下。

▼「98点くらいかな」、好き。笑

▼沈んでるときのココアまじでいいよねっ…!

▼「あ、超いいこと思いついた!」と思ったときって100%くだらないか楽するための発明……笑。でも、たしか佐藤雅彦さん(ピタゴラスイッチの生みの親)だったと思うんだけれど「生活の中に凝らされたちいさな工夫を見るたびに、そのひとの生きる希望を感じて嬉しくなる」的なことを言っていて非常に感心したのをおぼえています。ものは言いよう。。

追記

「100ワニ」への応答唱のように、クリエイターのパントビスコさんが漫画「ぺろちとすうじばこ」を連載しておられる。彼の人間社会へのインサイトと、それを解釈し、作品へと翻訳するその技はほんとうに尊敬に値する…!!!
しかもご本人が本当に楽しくてしかたないんだなということが伝わってきて、もちろん読者にはわからない大変さや辛さはあるのだろうけれども、一緒にあかるい気持ちになる。
嫌味がなく、ウィットは効いているが、絶対にだれも踏み台にしない面白さ、キャラクターの人間味、かわいさ、シュールさ、強さ、小一時間は語れるのでパントビスコ作品愛読者各位は声をかけてください。




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