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存在を揺らす、ということ

先日、といってももうだいぶ日が経ってしまったのだけれど、
1日だけバイトをした。

普段はバイトではなくインターンをしているのだが、あるとき急に、わたしは「あべまおこ」しかしてないな、と思ったからである。
つまり、わたしはどこにいても「あべまおこ」として存在することを許され、自分の色をもっと出せと言われることはあっても、個性を消せと言われることはまるでない(とんでもなく幸せなことだ)。大学の授業やインターンや友だちといる時はもちろんのこと、合唱しているときでさえない。

いまの聖歌隊に来てすぐのころ、こんなことがあったのを思い出す。
「阿部さんと(同じパートの)Mさんは音色が全然違うんだよね……」
と指揮者のOさん。うーん、ですよね。年齢がまず全然違う、息遣いが違う、響かせかたも違う、だからトーンが合わなくてパート内でズレる。どうやって合わせたらいいんだろう。
「合わせなくていいんだけど、」
「音の鳴らす位置を合わせる。でも主張は止めないで」

ちいさなアドバイスに、いたく感動した。で、じぶんが音楽ではなくて若さを主張しようとしていたことに気づいて恥ずかしくなった。それから小学校のころ「合唱は個性を消すものだ」と豪語していて、ひそかに反発を覚えていた先生を心の中で毒づきもした。

話をバイトに戻すと、こんな気取った理由のほかに、単純にバイトというものをしてみたかったというのもある。
ただでさえ予定がいっぱいなので、シフト制の仕事はできない、となると空いた時間にできる派遣の仕事。割り当てられたのは受付業務で、突っ立って、笑顔でいらっしゃいませこんにちは~と言いながらチラシを渡し、トイレの場所を教える。ただそれだけの、だれでもできる仕事。このあいだ動画で見た賢いチンパンジーなら、これくらいのこと、できるかもしんない。

非日常世界


朝行くと一列に整列させられ、名前を確認されると、そこからはバイトちゃん①~⑮、という感じの認識でぽんぽん仕事を振られる。①~⑮にとくに差異はなく、準備の時間にちょっとヒマしていれば「一人貸してー」なんてやりとりもあって、わたしも例に漏れず「借りられ」たり「貸し出され」たりしてきた。

あの仕事中にこんなこと考えているヘンなヤツはわたしだけかもしれないが、いままさしくone of themとして扱われていて、わたしがアベマオコであることなんて誰も知らなくて、そんな情報求められてもいない!ということに無駄にテンション上がってしまった。日ごろ担保されている同一性を揺らし、one of themとしてひとの群れの中に埋没する経験。
しかも一緒に働いていた人も驚くべき多様。
受付業務なので来る人数に波がある。暇な時間も多くて一緒の担当の人たちと喋ってみれば、某W大学の女子大生、ADHD気味の女性、肩書は秘密だと爽やかに笑う20代ぐらいの人(やけに明るい)、、など演出したかのようにさまざま。だれかの<かけがえのないひと>であっても、全く平坦に扱われる。こんなことはふつうの人付き合いではありえない。
各人の厖大な物語は、そこでは断片すら語られることもなければ、ついぞ語られずに終わったなという感慨すらも、誰からも持たれない。むしろこの哀しさはちょっとロマンチックかもしれない。完全にひとから色がぬけているという状況。不自然で、しずかな非日常だった。


じぶん色が求められる時代の、脱色という選択肢

たまにはこうやってじぶんを脱色してみるのもいい。「わたし」が再定義されるような気もした。
わたしは、いまはいろんな場所で健全に、心地よくアベマオコをやらせてもらっているが、いつか己をidentifyすること、されること(日本語に適語がない、「ひとつにまとめておくこと」とでも言おうか)に疲れたときの、手軽な「存在の揺らし方」だとおもった。
「自分探し」に疲れちゃったひとがスクランブル交差点に立って安心する、あるいはよくある「星空を見ていたら自分の悩みのちっぽけさを実感してラクになった」的な感慨の親戚みたいなイメージね。

何者でもないわたしがこんなことを言うのは少々気が引けるのだが、
この「存在を揺らす」というのは、結構大事なことだとおもっている。
これは言うなれば、世に言う「自分探し」とやらの逆だ。
何事につけ、じぶんだけの何かがあるはずだと若者が追い詰められるこのご時世。わたしの色ってなんだろう。そんなものが最初からあるなら、だれも学校なんて行く必要ないんだ。そんなひりひりした哀しい命題は捨ててしまった方が良い。じぶん色をいかにアピールするかみたいな時代だが、ラベルに嫌気がさしたときは、脱色という選択肢を忘れないでいたい。逆にじぶんについたラベルが役に立つときは、素直にその色をまとったらいい。

だいたい、「わたし」なんてものは関わるひとの数だけある。どこでも同じ顔をしているひとより、むしろその振れ幅がデカいほうが、人間としてのバリエーションがゆたかで、魅力的な感じがする。むしろどこでも——授業中でも、友だちと二人でいる時も、飲み会でも、会議中も、おどっているときも——同じ態度、同じ顔で「これがわたしだ!!そっちが合わせろ!!」と己を突き通そうとする人間なんて面倒くさくてつきあっていられない。接しているひとが違うのだから、じぶんが全然違ったほうが健全だ。「ひとつに定まらない」なんて悩んでいる場合じゃない、もっといろんなところでいろんなひとにいろんな顔を見せればよいのだ。そうこうしていくうちにうしろに出来ていくものが「わたし」なのだ、だから探すものじゃないのだ。
……と頭ではわかっていても、「わたし、ここではこういう人間じゃないからなぁ」と、「キャラ」みたいなものが邪魔してしばしば言いたいこと・やりたいことを弱弱しくためらう。だから意識的に揺らしていきたいというか、ぶらしていきたい。じぶんを固定せず、いつでも何にでもなれるよう、揺らしておきたい。まだお前は若いんだから、縛ってる場合じゃないぞお、といつも言い聞かせている。難しいんだこれが。

なんでも学びに変えたヤツの勝ち!だとは思うけど。


もう一点はやはりこの時間の切り売りにじぶんの大切な時間を使うわけにはいかないな、ということである。端的にお金を得られること以外の意義が見いだせないので、飽きてしまった。

これといって売れる能力がない今は、仕事でお金を稼ぐには基本的に時間を切り売りするしかない。だから勝負は、そのなかでいかに多くを学べるかということだとおもう。
みんながやっているようなのは一つのお店に入って、人間関係も作りながら、じぶんも学んでいく(とおもう、やったことないからわからない)。「バ先」という響きはちょっとかっこよくてあこがれる。一方の派遣単発バイトはどこまで行っても機械作業しかなく、というかそもそも、なんにも考えていない人間でも職務が全うできるようにタスクを構造化し、人間を物理的にアサインしている。(もしやるんなら、そのブレインの方をやりたいw)
だれにでもできる仕事をやり続けて初めて「自分にしかできないこと」の地平が見える、とわたしは常々思っている。派遣バイトも突き詰めれば学べることはあるのかもしれない。が、そこまで突っ込む時間も熱量もなければ意義も見出せない。
足もとても疲れるから当分はやりません。


さてわたしは今年、二十歳になってしまうらしい。
ハタチであるからには、子どもにも大人にもできないことをたくさんしたい。
そのために存在を揺らせる自由を、つねに身にまとっていたい。

ことしもよろしくお願いします。

*不定期更新* 【最近よかったこと】東京03単独公演「ヤな覚悟」さいこうでした。オタク万歳