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粗品がほんとうに粗末なモノでも、文句言わない?

先日、自分の書いたものに「ご笑覧下さい」と付記して投稿しようとして、手が止まった。いま晒そうとしているこの読み物は、はたして人様の貴重な数分を奪ってまで読んでもらうに値するものだろうか、という気がした。

ご覧ください、ならそんなにひっかかりはない。この違いはどこから来る?

笑覧、という言葉にあまり馴染みのない人もいるだろうから辞書を付け加えておこう。要は読んでください、の最上へりくだりバージョンだ。

しょう‐らん【笑覧】自分のものを人に見てもらうとき、つまらないものですが笑って見てくださいという気持ちを込めていう語。「お暇な折にでも御ーください」

つまり謙譲度合いで言うと、ご覧下さい < ご笑覧下さい
ということは内容の面白さは、ご笑覧の対象 < ご覧になる対象
と考えたほうが論理的に自然だ。

しかし実際は、ご笑覧ください、と言われるとしっかりした/面白い文章なのかな?とどこか期待してしまう。なぜだ。

ここまで考えて、思い出した。小説家・堀江敏幸先生が小説の中で書かれていて、膝を打った文章があった。以前自虐について書いたnoteでも触れようと思って、結局入れどころがなくてやめたやつ。(こんな思想めいたことを、小説中に展開してしまう堀江先生がわたしは大好きです)

「粗品には、差し出す側が本当は素晴らしいものだと信じていながらいちおうはへりくだっておく場合と、誰がどう見ても粗末なものを堂々と進呈する場合の二通りがあって、正直なのは後者なはずなのに、多くはけちくさいと非難されることになる。つまり用法としては前者が適切なのだ。たとえば私が自分自身を指して浅学非才というのはまったくの真実だが日本語としては誤用になるわけで、みずからを浅学非才と称しうるのは名実ともに優れた人格者でなくてはならないのである。かつて一国の首相にまでなりあがった著名な政治家が、ある場所でおのれを浅学非才の身だと笑顔で言い切った場面をテレビで目撃したことがあったが、そのときに感じた違和感はおそらくこの誤用によるものだったのだろう」(堀江敏幸(2006)『いつか王子駅で』新潮社, pp. 151-152)

以前に高校時代の部活仲間と秩父を旅行して、宿の近くの和菓子屋で「粗品」がもらえるというので行った。粗品、だからねー、と期待せずに行ったが、案の定しょぼくて、少しがっかりした。そんなじぶんが密かに可笑しかった、ということも思い出した。それならお饅頭ひとつあげます、って書いてくれた方がよかった。

謙譲表現はどうやら、期待値を下げるどころか上げてしまうらしい。自慢したいものほど下げる、見てほしいものほどつまんないよ(見ないで)って言う。この「前提された天邪鬼さ」みたいなもの、日本人の美意識ともいえるし、仄暗さこそがそこに居るものを視たいと思わせるジャパニーズ・ホラーの原点ともいえるし、NoがYesと解釈される迷惑千万な性的同意概念の根源ともいえるし、ダチョウ倶楽部の鉄板ネタでもある。


この感覚ってしかし、一体いつ頃わかるようになったんだろうか。
そういえば子供の頃、「雪国もやし」のCMではなわが歌っていた

♪雪国もやしはめちゃめちゃ高いから~~みんな絶対買うなよ~~
雪国もやし!

という歌詞があった。放送当時幼稚園の年長ぐらいだったわたしは、CMを見て商品を買ってほしいはずなのに、なぜ「高い」「買うなよ」と言うのかまったく理解できず、何度も何度も母に理由をたずねた。最終的には「高い=いいもの」だから、買う理由になる。ということで一応納得した気がするが、「わたしなら買わないのにな」と素直な幼稚園児は思った。

もう15年ほども前。いつのまにやら大人になってしまった。というか、ものすごく日本人になってしまったな。そしてこれを読んでちょっとピンときてしまった人も、今日から「粗品」「ご笑覧」「愚見」「寸志」「拙宅」などのことばでニヤッとしてしまうようになるでしょう。「弊社」ぐらい頻繁に使う言葉だと気にならないから、使い込み方の問題もあるのかなとも思うけれども・・。ともかく、不用心な謙遜には気をつけようと思う。

*不定期更新* 【最近よかったこと】東京03単独公演「ヤな覚悟」さいこうでした。オタク万歳