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Un pure(純粋らしくない)…記事と関係ないけれどピュアさにこだわると大半のボカロ曲楽しめないとか言っておく⭐️⭐️🗼🔮🌈

バランスよく描けた。


フォロワー増えるライティングいい意味で忘れちゃったよ😭

YouTubeいい意味で結構頑張っていたうちに

フォロワーさん少なくなっちゃった😭

noteではいい意味で自己開示を続けてきたからこそ、

工夫して残した財産がプラスになり、

いい意味で惰性で書いているだけでもフォロワー増えてたんだと、

思っている。

そのノリでYouTube投稿していたら、

YouTubeユーザーは私のチャンネルを見ても、

「あんた誰だっきゃ」

という状態になっていたこともあると思う。

YouTubeでは、逆に自己開示が足りなかったから、

これまで伸びなかったのかな〜、とか思う。

それで、最近は、YouTubeでも、

みんなに友達になりたい、と思ってもらえるような

キャラクター作り、をいい意味で頑張っていた。

noteでは軌道に乗り出して、改めて自己開示することは

いい意味で封印していたけれど、

YouTubeチャンネルを成長させるには、

そのいい意味で封印した自己開示を持ち出す必要があった。

noteのキャラとYouTubeのキャラがいい意味でごっちゃになり、

フォロワーが増えるライティングってなんだっけ❓

な状態になっている。

noteでは、これまで軽やかに遊んでいたかったから、

コアすぎる投稿は、いい意味でしすぎないようにしていた。

いい意味で広く深く。が私のモットーだった。

しかし、その広く浅く、と深く狭くのいいとこ取りをしたような

スタイルは、YouTubeではいい意味で評価されない現実があった。

YouTubeは深く狭く、がモットーだとよく聞くが、

確かに、ユーザーに登録ボタンや高評価を押してもらうには、

全人類に媚びるような感じではなく、

一部の人に猛烈に共感されるような作りが必要かもしれない。

繰り返し言うけれど、noteの「広く深く」のキャラと、

YouTubeで求められる「狭く深く」のキャラが混同して、

noteで築き上げてきた「ラムネコ/あおもりん」というキャラ

がこれまで書きそうにないこと。出しそうにない雰囲気。

みたいなものを出してしまっているかもしれない。

あと、単純にYouTubeでもなかなか伸びている(と言っていいのかな)

アッピルをしているから、

noteだけを使っているユーザーは私に

「いけ好かない」

と思うかもしれない。

規模は全然違うけれど、

TikTokで100万人以上フォロワーいる人が

YouTube(別のプラットフォーム)などを始めたら、

批判される、という事例もある。

100万フォロワーとはいい意味で程遠いけれど、

いい意味で小さなスケールで、

それと同じ現象が発生しているかもしれない⭐️⭐️🗼🔮🌈


【追記】

明るい話題や楽しい気持ちなどは、

暗い話題や悲しい気持ちよりも、

一般的に価値の高いもの、とされる、というのはわかるんだけれど。

明るい話題、楽しい気持ちを表現するだけじゃ物足りない自分がいる。

一貫して明るい話題、楽しい気持ちを好む人は、

よっぽど過去に辛いことがあった人なんじゃないかな。

私の場合、当時はこんなに辛いことがあるか、

と打ちひしがれていたんだけれど、

いつまでも傷心を負った態度でいるのが

格好悪いな、と思うところがあり。

当時は、かなりひどく荒れたこともあったけれど、

今は、自分が過去に経験した苦しさ、辛さなど

大したものではなかった、ということにしている。

しかし、今回描いた絵のような絵を描くのは、

実際は、詳細は忘れたけれど、

かなり辛かった過去を忘れないようにしている。

じゃあ、忘れてしまえばいいのかというと、

忘れると物足りないんだよな。

物足りない、が答えなんだよな。

純粋とは、混じり気や邪念がないことだけれど、

それは陽サイドから見た見解かもしれない。

陰サイドから見た見解は、

想起した邪念を奇麗な一般論で封殺せず、

アートという体で、表現する。

Un pure というのはあくまで陽サイドから見れば純粋らしくない。

と言えるけれど、

陰サイドから見れば、想起した邪念を奇麗な一般論で封殺せず、

極力ありのまま(それでも許される範囲は模索している)

表現することも純粋だと言えるんじゃないか。

タイトルがun pureなのは 陰サイドに所属しながら

陽サイドの奇麗な一般論感覚に合わせてネーミングした。

これが、陰サイドとして素直にシンプルにネーミングするなら

pure curse(純粋な呪い) なんだけれど、

陰サイドにも、陽サイドの方が、

社会的に価値が高いとされる気持ちはわかって、

ついつい陽サイドの奇麗な一般論感覚に合わせてしまうんだ。

要するに、陽サイドはマジョリティ(多数派)だと思うし、

(陽サイドがマイノリティになった世界も怖い笑)

陰サイドは、基本、マイノリティだと思っている。

マイノリティは、マジョリティに許されるかどうかが、

生存していけるかどうか、という部分に直結する。

陰サイドが、陽サイドに許される範囲を模索するのは、

自分の生存確率を高める理由もある。

どちらかというと、私はいい意味で陰キャ寄りだから。

こういう記事を書かさる。

陽キャ、陽サイドが羨ましいような、

でも実際に陽キャ、陽サイドに所属することが普通になったら、

陰サイド、陰キャ寄りの性格・人格として

知った人の優しさを、忘れることになりそうで、

それを思い出せなくなるくらい忘れてもいい、

とは言えない。


最近、YouTubeのショート動画で、セカオワのhabitをサウンドに

絵を描いている。

habitの歌詞には「隠キャ、陽キャ、君たちは分類しないと落ち着かない」

「この世の中2種類の人間がいるという君らが標的」

とあり、どうやらセカオワは、安易に人を分類する人に対して

メッセージソングを出しているようだ。

あとは

「自分で自分を分類するなよ」

という歌詞もある。

habitという音源を使いながら、

「【描いてみた】2級障害者の私が描くアート」

という動画を立て続けに出しているから、

私は自分で自分を分類しているし、

他者に分類させることを推し進めているようにも見える。

まあ、それには理由があり。

habitの歌詞には強く共感するけれど、

自分の行動を縛られるのが嫌で、

あえて、歌詞の内容に反したことをおこなっている。

それさえ、セカオワの思惑通りかもしれないけれど。

動画に来ているいい意味で低評価は、そういうところへの

低評価ならいい意味で納得する。

しかし、この方法で、再生回数や高評価やコメントが、

いい意味で通常の横動画よりも取れるのだから、

やらない手はない⭐️⭐️🗼🔮🌈



【追記】

他者に承認されやすい投稿の仕方を自分なりに研究すれば、

他者と調和することは容易だ。

私は、他者に承認されやすい投稿の仕方に興味を持つこともあり、

興味があるときはそういうスタイルを好んで使うことも多い。

しかし、根本的なところでの大きな進化を望んだ時に、

そのスタイルにおいてある程度抑えている自身の感性に

尋ねないことはいい意味で不可能だ。

相手に迷惑をかけるのは問題だけれど、

自身の感性を尖らせる気持ちなしに、

大きな進化をしていけるようには思えず、

何度も浮かんでは解決した気持ちでもあるけれど、

今一度、自身のシンプルな感性を蘇らせようと思うこともたまにある。

(相手に迷惑をかける事は問題という意識は忘れない)

その度、研究を重ね作ってきた仮面の存在を疑い、

急に原始的な感情を表現したりする。

今後も、大きな進化をしたいため、

いい意味で極力際限を設けず、

さまざまな分野を学んでいきたい⭐️⭐️🗼🔮🌈


楽しくて得られるものが多いクリエイターになります⭐️⭐️🗼🔮🌈