自己実現という不毛

はじめに。この文章は人に読まれることを前提にしていない。誰かに理解されようと書いているものではないから、理解されようと努力もしていない。ただ可能な限り正確に頭に浮かんだ言葉をトレースしようとしているに過ぎない。したがって、こんなものを読むのは時間の無駄だ。

とはいえ、そもそもどんな文章を読むことも時間の無駄なので、別に読んでも読まなくてもかまわないと思う。

それにしても人間はどうして自己実現しようとするのか。そういう自分だって、こうして文章を書いているということは、どこかで自己実現しようとしているに違いない。単に時間を潰すためにしているつもりではあるけれど、それは方便で、実は何かを期待しているのかもしれない。たぶんそうに違いない。何かを期待することこそが不幸の原因だ。わかっていても、人間は期待することをやめられない。

すべての哲学は自家中毒と自己矛盾に陥る。マインドフルネスの教師は「思考は悪」という自らの「思考」を他者に伝えようと躍起になっている。本人は否定するかもしれない。「頼まれてやっているだけで、自分にそのつもりは毛頭ない」などと言うかもしれない。でもそんなのはすべて言い訳だ。結局のところ人間は、自己実現から逃れることができない。まったく、なんというめんどくさい生物だろう。

「それならばせめて誠実に言葉を紡ごう。少しでも誰かの役に立つ文章を仕上げよう」そんな言い訳が思い浮かんでくる。すべては言い訳だ。スケープゴートに過ぎない。だからといって別に悪いわけでもない。

大抵の思考はロクでもないが、中でも自己否定は一番たちが悪い。速攻で身体と心に悪影響を与える。それを知っているから、人は酒やギャンブルに逃げるのだ。自己否定に比べれば、一瞬の快楽のほうが、まだマシだということ。だから自己否定はしない。自己否定をしていることに気づいたら、一瞬にして叩き潰して心から追い出す。それくらいの精神操作はできるようになってきている。これは瞑想の効果といえるかもしれない。

ただ自分の心を見つめる。それを極められれば何かが変わるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら生きている。その思いを断ち切ることは難しい。

仏教とはアクセルとブレーキを同時に踏み込むようなものだ。悟りを開きたいというのは明らかに「欲」である。仏教の指導者は「それだけは違うんだ」と詭弁を弄するが、そんなものは言い訳である。仏教はほとんどあらゆることに明確に答えられるくせに、仏教自身についてはまったくわかっていない。仏教そのものの矛盾についてはうまく説明できないのだ。

瞑想の最終目的は涅槃への到達だという。涅槃とは、完全に思考を停止することなのだそうだ。そんなことが本当に可能なのかどうかは、やってみないとわからない。何しろ自己申告の世界だ。「私は悟りを開きました」といったもん勝ちなのである。本当に思考が停止したかどうかなんて、誰にも分らないのだから。経典によればアラハント(阿羅漢)になった者は数少ないが存在するとされている。誰が、どんな基準で認めたかは定かでない。そもそも基準を定めること、計測すること自体が思考であり、瞑想においてはもっとも否定されるものだ。だったら涅槃への到達を、いったいどうやって確認するのだろう。ゴータマ・シッダルダは本当に涅槃に到達したのだろうか? 誰にも分らない。


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