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思考はクソである。

思考はクソである。よって、今こうして書いている文章もクソである。思考の99.99%は役に立たない。それどころか有害である。0.001%の思考。その程度のほんのわずかな思考には辛うじて意味があり、生活に役立つ便利アイテムを生み出したりする。その0.001%の積み重ねが、数万年の時を経て文明を作った。

なので、我々が日々考えている思考の99.99%は無意味どころか有害である。こんな文章も本当は書かないほうがいいのだが、書いている。なるべく考えないように、思いついたまま手を動かすようにしているので、被害は最小限に抑えられていると信じたい。文章の推敲を始めようものなら、瞬く間に思考の罠にはまってしまい、不幸のどん底に突き落とされる。

何も考えないほうがいい。わかってはいても、非常に困難である。地頭の良しあしや学歴の有無にかかわらず、我々は24時間ほとんどの時間、何かを考えることに費やしている。睡眠中の8時間は考えていないだろう、と一瞬思ったが、夢を見ているので思考は止まっていない。つまりほとんどすべての時間を、くだらないことを考えて無駄にしているということだ。

このループから抜け出すには今、この瞬間に意識をフォーカスするしかない。それがスポーツやゲームが流行る理由だ。脳に難解な仕事を与えてやることで、記憶からクソのような思考が沸き上がってくるのを一時的に抑制することができる。だがこの効果は、スポーツやゲームに興じている最中にしか働かない。飯を食べている間、風呂に入っている間、トイレで排便している間などは、やはり思考が沸き上がってきてしまう。

必要な時に、必要なことだけを考える能力を手に入れた人は、何をやっても成功する。物事に失敗するのは、無駄なことを考えすぎているからだ。わかっていても、これを止めるのは至難の業である。

瞑想は、思考をコントロールすることができる可能性のある、ほとんど唯一の策である。あるいは強力な薬を使えば思考をコントロールすることが可能なのかもしれないが(ADHDを投薬で治療しようと考えている輩が存在するということは、たぶんそうなんだろう。それ以上は調べない。考えたくもない)どう考えても身体によくない。

薬や器具に頼らずに思考をコントロールすることが今の課題だ。言うは易く行いは難しである。めっちゃムズイ。そう簡単に習得できる技術ではない。だが、やってみる価値はある。これ以上に投資価値のある活動はちょっと考えられない。

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